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人間・この舞踏的なるもの

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緋田美琴
緋田美琴

 明転。  一人の老いた女がいる。  女は施設に入っている。身体はくまなくやせ衰え、鶏のような骨を徒に豊かな皮が覆っているのみである。手足を動かすための筋肉はすでに失われて久しい。独力では歩くことはおろか、用を足すこともできない。催したときには、嗄れた声で人を呼ぶか、枕元のボタンを押すかする。すると、大義そうに中年の女が歩いてきて、子供程度の重さしかない女を抱きかかえる。女はやっとのことで足を地面につけると、軋んで痛む関節を無理やり動かし、数センチずつ足を前に出して、ようやく便所へたどり着く。そうして用を足す。食事のときは上半身を起こされ、湯とも食物とも区別のつかぬどろどろとした液体を、さも億劫そうに口に運ぶ。それとて、全て食べきれることは稀にしかない。あとの時間は、ただじっと仰向けに寝ている。時折介抱者が現れて、女を半身分転がす。褥瘡を生じさせぬためだ。そんな日々を続けているものだから、女は降りようにも降りられないベッドの上で、日々昔のことをおもう。  かつて、女はダンサーであった。そのころの女は勤勉であった。真摯に踊りと向き合っていた。寝る間も惜しんで鍛錬を重ね、人に請われて舞台に立つと、その晩から再び鍛錬をはじめた。ダンスとは身体によるものである。そして人生もまた身体によるものである。己の身体を動かし、何かに触れ、あるいは触れないことによって、人は己と世界との境界をつかむ。己の輪郭を形作る。世界と人が関わる手段は、その身体を通してよりほかにない。それゆえ、踊るということは生きるということだ。舞踊の鍛錬は身体の動きをより鋭敏に、無駄なく、洗練されたものに変えていく。つまり、よりよく踊るということはよりよく生きるということだ。女はそうおもう。  あるとき、女は舞台に立った。その舞台は、袖に入った瞬間から、常の舞台とは異なる気配がした。気力は充実し、吸気は澄んで、これから猛然と動き出そうとする肺腑いっぱいに満ち満ちている。産毛の先にすらしびれるような緊張感が行き届いている。女は確かにそれを感じた。  スポットライトの下で踊り始めたとき、女ははっきりと、待ち望んでいた瞬間が訪れることを知った。身体の動作と世界はいま、完全な調和を迎えていた。動作ひとつひとつの押し引きと、外なる世界の圧力との均衡が、これ以上なく保たれていた。それだけではない。ひとつの動作を成し遂げると、連鎖的に、それしか有り得ないような形で次の動作が立ち現れた。全身が躍動するのに反して、意識は一点に静止し、凝然と次に起こる動作を受け入れていた。これだ、と女はおもう。この瞬間こそが、ダンスなのだと。  しかし、その舞踏は予定通りに終わりを迎える。音楽が止み、身体が静止し、幕が下りたとき、女は信じられないような気持ちで幕を見上げる。ダンスが終わった。ダンスが終わったというのに、なぜ自分はここに立っているのか? 女はなにか取り返しのつかないことが起こったことを直感した。舞台を降り、日常の服に着替え、さもしい食事を取ってなお、女の人生は続いた。しかし、女にとってのダンスは終わった。あの完全な調和は、それから二度と訪れなかった。女はなおも舞台に立ち続ける。しかし、数年が過ぎ、身体が昔ほど機敏に動かなくなれば、女の立てる舞台はなくなった。女はなおもダンスにこだわろうとした。しかし、関節は日に日に柔軟性をなくし、筋肉の張りは衰え、振りは頭と体から霧散していった。女はついに、施設に入ることになる。舞踏で得てきた金は、すでに底をつきかけていた。生きるとも死ぬともつかぬ日々のなか、女が思うことはただひとつである。あのとき、死ぬべきだった。ダンスが終わると同時に、人生を終えなければならなかったのだ。人生なき人生を生きることは、なんと無意味で苦しいことか――  そうして女は死ぬ。死体は荼毘に付され、不自然な方向に縮み捻じ曲がった、白骨だけがあとに残る。

「ねえ、プロデューサー。プロデューサーは、この話をどう思う?」  緋田美琴は、まるで世間話のような軽やかさで、ある女の話を語った。プロデューサーと呼ばれた男は、しばらく逡巡したのちに、重々しく口を開いた。 「そうだな」彼の発する一音一音の踏みしめるような長さは、まだ躊躇いが残っていることを感じさせる。「俺はもちろん、その人のことをよく知らないけれど……ダンスが終わったあとでも、生きる理由が見つかっていたら、と思うよ」 「そうかな」美琴のほうは、ほぼ間髪を入れずに答えた。「私は、この話みたいにダンスが終わったとしたら、その後はもう、生きる意味なんてないと思う」  二人の間に、しばらく静寂が降りた。  もちろん、昼間の事務所であるから、完全に無音となっているわけではない。外からは車の通りる音が度々前から後ろへ抜けていったし、一枚壁を挟んだ向こうではあまり新しくもない冷蔵庫が控えめな唸声を立てていた。だが、二人の他には、誰もいない。お互いが黙ると、それきりであった。  口を開いたのは、美琴のほうだった。 「でも、この話の女の人は、勘違いをしているんじゃないかな。だって、ダンスが終わっても、人生が続くことなんて、ありえないから」  プロデューサーは、恐る恐る訊いた。 「と、いうと?」 「ダンスは、一定の時間とリズムの区切りがあって、初めて成立するものでしょ。もし、踊るということがそのまま生きるということだとしたら、片方が終わるということはないんじゃないかな。もしそれが不本意な、惨めで、みすぼらしくて、間延びした終わり方だとしても、それもまたダンスの終わりだし、人生の終わりだと思うの」  彼女は、澄んだ眼をしていた。彼はそれを見た。朝焼けのような瞳のなかで、確かになにか熱いものがゆらめいていた。火傷をするかもしれない、と彼は思う。彼は心のうちで、どこか逃げ場を探している。 「完璧なダンスというものがもしあるとしたら、それは最後の一瞬まで完璧でないとあり得ない。むしろ、最後の一瞬が完璧であることが、逆説的にダンスを完璧にするんだと思うの。部分は、パーツとしての意味以上に、全体を規定していくものだから。完璧な終わりは、自分の主体性と、そうならなければいけない、という強制力がつり合ったものじゃないといけない」  美琴はそこで、改めて息を吸った。 「つまり、完璧な人生の終わりというのは」  そこまで口にしたところで、廊下へと続くドアが音を立て、二人は驚いて振り返った。何かがぶつかったような音だった。  ドアがゆっくりと開くと、ばつが悪そうに姿を現したのは、七草にちかだった。 「すみません、打ち合わせ……で、よかったですよね」  プロデューサーは立ち上がり、「ああ、ちょっと早いけど、二人が揃ったし、始めてしまおう」とつとめて明るく言った。その声色には、明らかに、安堵が混じっていた。  にちかは慌てて席に着き、プロデューサーは資料を取るために机へと戻った。美琴はただ、静かに、何も無い机の上を見つめていた。  打ち合わせは、次回のSHHis単独ライブについてのものだった。これまでの実績を踏まえ、今回のライブは二人に――実質、美琴に演出と構成を担当してもらうこと。ダンサーやトレーナーについても、美琴が発案すれば事務所で手配が可能であること。そういったことを一通り話すと、プロデューサーは資料を置き、二人を見た。「予算もあるし、箱の制限もあるから、何でもとはいかない。でも、できるだけ希望が叶えられるように、努力する」にちかは美琴のほうを見て、美琴はただ頷いた。「わかった」  それで打ち合わせは終った。  美琴はすぐに、レッスン室へと去っていった。そうすることに、誰も疑いを抱いていなかった。美琴が後ろ手にドアを閉め、足音が廊下を遠ざかっていくと、にちかはプロデューサーの方へ身を乗り出した。 「さっき、聞こえちゃったんですけど」 「ああ」 「いや、ああじゃないでしょ。どういう話をしてくれてるんですか、美琴さんと」  話し始めたのは美琴であったし、それを止めることも難しかったと思われたが、プロデューサーは黙っていた。その正しさを確認しない忍耐は、彼がにちかと付き合っていく上で真っ先に身につけた技術だった。 「最初から聞こえたわけじゃないですし、わからないところも多かったので、あれなんですけど。でも、あの話し方じゃ、まるで美琴さんは」 「いや、そんなことはないよ」  はっきりとした声だった。彼は最初から、口を挟むのならここだろうと決めてかかっていた。 「にちかの思っているような話じゃなかった。だから、安心していい」 「なんですか、それ。私の思っているような話って、どういうことかわかってるんですか」 「わかるよ。もちろん」  その決然とした響きに、にちかは一瞬言葉を飲んだ。が、すぐに不機嫌な悪態をつく。 「ああそうですか、プロデューサーさんはエスパーですか。私たちの考えてることくらいお見通し、ってことですか。そりゃさぞかし、楽なお仕事でしょうね」  乱暴に筆記用具と資料を鞄に詰め込むと、にちかは席を立ち、ドアの方へ歩き出した。足を踏みならすたび、スリッパが空気を吐く音を立てた。 「自主練行ってきます」  そう言い残して勢いよく閉められたドアを、プロデューサーはしばらくそのまま見つめていた。

 レッスンが終わると、美琴はトレーナーの息が切れていることに気付いた。振りも入ってきたところなので、今回は美琴が主にダンスを行い、トレーナーは時折手本を見せたり、声でカウントやポーズを指示したりする程度であった。だから、美琴のほうがはるかに動いていたはずだ。だのに、美琴の息はすでに整っている。  かつては、こんなことはなかった、と美琴は思う。頭からほとんど一緒に踊っても、最後までブレない軸の強さがあった。そのタフな印象が強かったからこそ、今回の単独ライブのパートナーに彼女を選んだというところもある。なのに、これはどうしたことだろう。ただぼんやりとトレーナーを見つめていると、相手もそれに気付いたのか、荒い息の合間から美琴に微笑みかけた。 「ごめんね、最近どうも息切れがひどくて」 「いえ、大丈夫ですか」 「もうちょっとしたら良くなるはず。嫌ねえ、年のせいかな」  トレーナーは笑ったが、美琴は笑わなかった。トレーナーは顔を背け、しばらく黙って呼吸を落ち着けることに専念した。  まともに喋れるようになったところで、トレーナーはふと口を開いた。 「まあ、誰にでもあることだからね」 「誰にでも、ですか」 「そうよ。あなただって、年をとったらこうなるんだから」  美琴は、遠い国の話を聞いているような表情をしている。それを見て、トレーナーは言う。 「今は想像つかないかもしれないけどね……いつか、何曲も通しでは踊れなくなる日が来るのよ。キレはなくなるし、息は上がるし、そうなるともう軸なんてブレブレだし。それでも、私はダンスにしがみついた。だから、今でもこうやってヘロヘロになりながら教えてるってわけ」  それでも、年々踊れなくなっていくんだけどね、とトレーナーは自嘲気味に微笑んだ。美琴も今度は微笑んだ。が、頭の中では別のことを考えていた。  舞台に立てなくなったら、それはダンスと言えるのだろうか。もちろん、誰にも見せないで、誰にも習わないで、一人で踊るひとはたくさんいるだろう。六本木のクラブで肩を揺らしている人たちだって、踊っているとは言えるかもしれない。けれど、それは私が思うダンスではない。  舞台に立てなくなったダンスに、輝かしい達成は、きっとない。それはもうダンスではない。だから、「舞台に立てなくなってもダンスにしがみつく」ということは、あり得ない。 「踊れないくらいなら死んだほうがマシ、みたいなこと、考えてるでしょ」  トレーナーに指摘され、美琴はかるく目を見開く。 「あ、図星? まあ確かに、あなたくらいの年の頃はそういう考えの子も多かったかもな」  トレーナーは持ってきた用具を片付け、退出する準備を進めながら、ふと思い出したように話した。 「でもね、この年になってみると思うのよ。踊れなくても、案外なんとかなっちゃうんだ、って。ダンスをやめても、意外とみんな食べるのには困ってないし。最後のステージでは、この世の終わりだ、ってくらい号泣してた友達だって、今では元気にジムでエアロビクスなんて教えてるし。気付いたら結婚しちゃってる子とかもいるし。意外と、色々あるものなんだよね、人生って。っていうか、色々ない人生なんて、むしろ寂しいじゃん」  出るよ、とトレーナーは美琴を促した。美琴としては続けて自主練もしていきたかったが、あいにく次の時間には予約が入ってしまっている。ボトルとタオルを持ち、トレーナーの後に続いた。レッスン室の電気を落とすとき、トレーナーは横目に美琴を見た。 「納得いってスパッとやめる、なんてこと、結局普通はできないんだよね。でもむしろ、そっちの方が楽しめると思うよ。何が楽しいか、っていうのは、人次第だけどさ」  パチン、という軽い音とともに部屋の電気と空調が落ちた。  さっきまで眩しかった鏡の前は、嘘のように寂しく静まり返った。

 今日の舞台は何かが違う。にちかはそう感じていた。  ただでさえレッスンで多忙な美琴さんが、その合間を縫って心血を注いだ舞台。美琴さんが持てる人脈を使い、最高の形で作り上げた単独ライブ。もちろん、今までのどの舞台よりもいいものになるはずだ。それは間違いない。けれど、とにちかは思う。それだけではないのだ。リハが終わり、お客さんが入り、舞台袖に入ったときから、今の今まで、ずっと心地良い緊張感が持続している。手足の末端まで注意が行き届き、鋭敏なフィードバックが返ってくる一方、一歩引いたところで冷静に全体を俯瞰する意識もある。これまでになかった感覚だ、とにちかは思う。いわゆる、ゾーンに入っている、というやつなのかもしれない。 「にちかちゃん」  隣からの声に、にちかは驚いたように顔を上げた。 「大丈夫?」  美琴はにちかの体調を気遣っているわけではなく、ただ次の曲、最後の曲への準備ができているかを問うただけだった。にちかは当然それを知っており、「大丈夫です」と素早く答えた。とはいっても、まだ衣装を直されている最中で、動ける状態ではない。準備を聞くにはまだ早いだろう。ぼんやりとしているように見えたので、釘をさされたのだ、とにちかは解釈した。 「なんだか、今日はいつもと違うんです。いつもより一段上の集中ができてるっていうか、身体の動く方向がわかるっていうか。最初からずっと、これまでにないくらいバシッと動けてる気がして」  言い訳をするように話し始めたところで、美琴は別に会話をしたくて話しかけたわけではないのだろう、ということに思い至る。ただ確認をしたかっただけなのだ。そう思うと、急に話し始めた自分のことが恥ずかしくなってくる。 「いや、何言ってんだって感じですよね。最後までミスらないように頑張ります」 「ううん、良いことだと思う」  突然褒められ、うつむきかけていたにちかは再び顔を上げた。舞台袖の逆光の中、美琴は、優しく微笑んでいるように見えた。 「だから、がんばろう。最後まで」 「はい!」  舞台に出て、中央の目印で静止。一瞬の間の後に、スポットライトが煌々と灯り、最後の曲が流れ始める。  二時間ほどのライブの締めとなる舞台上には、絢爛な特殊効果も、大勢のダンサーもいない。美琴はあえて、最後の曲を二人だけで踊り切ることを選択していた。それは当然慎ましさなどではなく、二人だけで完璧にライブを終わらせるという自信と、そうでなければならないという美学の顕れだった。にちかは、もちろんその含意を承知している。だからこそ、この場面で自分は一番緊張するだろう、と思っていた。  しかし、にちかの集中は途切れなかった。それどころか、美琴と二人きりのダンスのなかで、ますます高まっていくように思えた。今や、自分の動きだけでなく、美琴の動きすら手に取るようにわかる。美琴が動き出す予兆を感じとるや否や、機先を制するようににちかの脚が動き、それを抑えるように美琴の腕が動く。拮抗するように、而して高めあうように、二人は運命的な強制力に従って動いているようだった。もはや観客も音楽すらも舞踏の問題にはならない。にちかの意識は、さらに一歩引いた視点から、舞台全体を見渡すようになっていた。  信じられないような調和のなかで、しかし二人のダンスは、確実に予定された終わりへと向かって雪崩込んでいく。にちかはふとそのことに気付き、愕然とした。それと同時に、先日の打ち合わせ前、ドア越しに息をひそめて聞いた会話のことを思い出した。そして、雷光のような閃きがにちかを打った。  ――美琴さんは、このダンスが終わった瞬間、死んでしまうのではないか?  しかし、そう思ったところで、既に身体は次の動作へと向かっており、その流れを止められそうにない。それに、とにちかは思う。例え美琴さんが死のうとしていたとして、それを止める権利があるのか? 様々な思いと記憶が凝縮された一瞬の中で、にちかは内心かぶりを振る。いや、権利などというものは誰にもないのだ。彼女の人生の行く末をどうこうする権利など、どこにも存在しない。しかし、美琴さんがいなくなってしまうのは嫌だ。美琴さんがいなくなっては困る。私は私のエゴで、美琴さんを止めなければならない。  曲はアウトロに入り、いよいよクライマックスへ向かってその激しさを増していく。息もつけないほどの応酬のなかで、しかし、にちかは、自分の中に急速に意思が、つまり調和と収斂からは程遠い鈍重さが戻って来るのを感じた。その重さを渾身の力でもって押して、曲が終わる最後の瞬間――にちかは、美琴に飛びついた。予定にはない、美しくもない動きだった。  不意を突かれた美琴は、体勢を崩しかけながらも、にちかを受け止め、抱き合うような格好になった。感極まっているように見えたのだろうか。無音になった途端、観客席からは津波のような喝采が湧いた。曲は終わった。全てのダンサーが望んでいたはずの瞬間は、訪れなかった。  にちかは思う。美琴さんを、止めてしまった。どこまでも飛翔し、この重力から脱出できたはずの美琴さんを、部分をもって全体を完成することができたはずの美琴さんを、私が止めてしまったのだ。その事実の人生にも似た重みに、脚が震えそうだった。しかし、とも思う。ともかく、美琴さんはここにいる。これでよかったのだ、と。  震えるにちかを抱きとめながら、美琴は思う。次は、もっとうまく踊れる、と。  暗転。