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エレファント・オン・ザ・ルーフ

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小林さん・トール
小林さん・トール

 路上でぶっ倒れたまま、朝を迎えたことがあった。  足がもつれ、植え込みの脇に倒れ込んだのが良くなかった。一旦歩みを止めてしまうと、身体は血が通っていないように重く、そのままどうにも起き上がることができなくなってしまったのだった。泥酔していた。18時から明け方近くまでぶっ通しで飲んでいたのだから、足元も覚束なくて当然だった。長時間残業の末にようやく大きな納品を迎え、気持ちが緩んでいたのが原因だったのかもしれない。  寒い季節でなかったのが幸いだった。しばらく転がったまま、ビルを見上げている余裕があった。さっきまでは自分の足音があったせいか気にならなかったが、あたりは壊れた冷蔵庫のように静かだった。昼間は眩しいくらいのオフィス街だが、夜更け過ぎには誰も通るものはない。動けないまま一人で仰向けになっていると、見知らぬ星で山にでもなったような気がした。遠くの方を時折、滑るような車の音が過ぎていった。草と土のにおいが夜の底を漂っていた。  しばらくそうしていると、徐々に空が青みを帯び始めた。あっ、と思っているうちに、どんどん夜は透明になった。植え込みの葉の一枚一枚がはっきりと見えはじめた。視界の脇を取り巻くビルたちが、緑っぽい青色に染まっていった。コーラか何かを、一気に飲み干したようだった。その空き瓶じみた建造物が、夜明けの薄い光のなか、鈍く鮮やかに佇立していた。  その青緑色の輝きを見て、私はようやく、自分の身体が動くということを思い出したのだった。脚に力を込めて立ち上がってみると、足の裏から伝わる地面の感触が懐かしく、また無性に嬉しかった。夜のあいだは心細かったのだな、と、そこでようやく気がついた。  トールに出会う前の話である。

「あれ?」と思わず声に出た。小さな呟きのはずだったが、人気も少ない20時のオフィスでは、存外に響いた。 「どうしたの?」  隣の席の滝谷くんが伸びをしつつ、椅子をこちらに引いてきた。  しばらく根を詰めて資料と向き合っていた彼にとって、私の不用意な発声は良い息抜きのチャンスになったのだろう。私にとっても、彼の意見を聞けることはありがたかった。仕事内容は被らないときもあるとはいえ、明晰でフラットな意見をくれる滝谷くんは、相談相手としては格好の存在だった。 「このあたりって、見たことある?」  私が指したのは、今回初めて改修に携わるソースコードだった。  改修自体は大したことのない分量のものだが、既存の部分を見てみたところ、どうも挙動と設計が噛み合っていない。本来つくはずのなかった機能を無理やりつけ続けた結果、違法建築じみた不格好さになってしまっていた。  こういう状態を正常に戻すためには、一度基礎の設計からやり直すほかない。が、少なくとも数年は、誰も改革に手を付けた様子はなかった。 「ああ、これは……」と彼は一瞥して頷いた。 「エレファント・イン・ザ・ルームというやつだね」  耳慣れない言葉だった。思わず顔を見ると、彼はいたって真剣に画面を見つめているようだった。 「エレファント? 象?」 「うん」彼はコードを目で追いながら続けた。「部屋の中に象がいたら、誰だって気にせずにはいられないだろう? でも、誰も象を追い出そうとはしないし、言及しようともしない。みんななんとなく目を逸らし続ける。って、そういう状態」 「なるほど」  確かに履歴を見ると、これまでの改修者たちは皆粛々と違法建築の増築を手伝っているようだった。この歪さに気付かなかったはずはないが、作業時間との兼ね合いもあり、目を背けられてきたのだろう。まさに、部屋の中の象。  部屋の中の象? 「象はどうして、部屋の中に入ってしまったのかな」  そんなことを考えたのは、そして呟きが漏れてしまったのは、やはり疲れていたせいだろうか。  画面を見つめ続けていた滝谷くんが、怪訝そうにこちらを見た。 「それって、コードの話? それとも文字通りの?」 「あ、ううん、ごめん」と仕事に関係のない話をしかけたことを謝ったところで、彼は息抜きに来ているのだったな、と思い直した。「そう、文字通りの」 「文字通り、部屋の中の象か。確かに、不思議だね」 「そう。だって、象にとっては人間用の部屋は居心地が悪いでしょ? 窮屈だし、だいいちドアから出入りできるのかもわからない」 「そうだなあ」彼は話に乗ってくれるようだった。「まだ小さいころに入ってきて、そのまま成長してしまったとか」 「そういう小説を読んだことがあるかも」 「何らかの事情があって、外に住めなくなったとか」 「それは困ったな。追い出すわけにもいかない」 「それとも」  と、彼は不意に微笑んだ。 「部屋の中の人間のことが、好きになってしまったとか」 「ああ……」  できるだけ何の感情も乗せないように、私は画面から目を逸らさずに言った。 「滝谷くんって、意外とロマンチスト?」 「さあ、どうだろう」  彼は笑いながら、もう一度伸びをした。 「さて、もうひと頑張りだけして帰ろうかな。明日は休みだしね」  彼は自席に戻ると、すぐに資料を手に取り、再び格闘を始めたようだった。切り替えが早いのも彼の長所だった。  私はというと、しばらく象のことが頭から離れなかった。きっと合わないことがわかっていながら、どうしても、狭い部屋に居ようとする象。狭い部屋から出ていこうとしない象。そのいじらしさがあるのに、「私にとっては少々手狭です」と漏らしてしまった、あの……  そこまで考えたところで、無意味に画面をスクロールする手を止め、ブラウザの検索欄に「明日 天気」と打ち込んだ。快晴の予報だった。気温が高く、洗濯物もよく乾くでしょう。  私はブラウザを閉じ、再びコードと向き合いながら、象を追い出すための設計を考え始めた。

「トール。身体洗ってあげる」  そう口にすると、トールは目を丸くして驚いたようだった。「こっちこっち」と呼ぶと、上を脱ぎながらついてくるので、「あ、服は着たままでいいから」と制した。メイド服もどうせ鱗でできているのだから、脱ぐ必要はないだろう。 「え、お風呂じゃないんですか?」  首を傾げるトールに向かって指を立て、天井を指してみせる。 「屋上だよ」  マンションの屋上に水道とホースがあること、水道代は持たなくていいことは事前に確認済みだった。ドアの向こうは予報通りの快晴で、熱せられた屋根からは、埃っぽく心地の良い匂いが立ち上っていた。「さて」と言いつつ腕をまくって、干からびたホースを手に取ると、トールはすぐに意図を察したようだった。 「小林さん、いいですか?」  発せられた声が弾んでいた。 「うん、いいよ」  一瞬の後、控えめな地響きとともに、もうもうと土埃が舞い上がった。  思わず閉じた目を開くと、目の前に巨大な尻尾があった。  でかい、と思う。それ以上に、猛烈な違和感を感じる。  地球上に、この質感とこのサイズを持つ生き物は存在しない。直感がはっきりとそう告げるほど、目の前の威容はクリーム色の屋上から浮いていた。  とはいえ、もう改めて驚くことはない。 「トールってさ、お風呂入るときはどこから洗う?」 「え!? えーっと……尻尾から、とかですかね?」  なぜか照れたように言う彼女の尻尾に向かって、固まりかけた水道の蛇口を勢いよくひねる。と、ホースの先のノズルからシャワー状になった水が噴き出し、「きゃっ」と小さな悲鳴が上がった。 「冷たい?」 「い、いえ! ちょっとビックリしただけで、むしろ結構……」  ホースを引きずりながら流す位置を変えていくと、トールは露骨に気持ちよさそうな呻きを漏らした。なんか、おっさんみたいだな、とのどかに思う。洗われたそばから、トールの鱗は輝きを増すようだった。普段のメイド姿からは全くわからないが、人間の生活をしていても、ドラゴンの身体は汚れるものらしい。 「小林さん、ありがとうございます」  呻きのあとに、トールの声が聞こえた。 「どういたしまして」  答えながら、空を見上げた。ホースの水飛沫のせいか、薄く虹がかかっているようだった。  気持ちがいい天気だった。洗車をするように黙ってホースを構えていながら、妙な充実感を感じた。虹の向こうには薄く漂うような雲があり、その先には青空があった。雲の近くでは水色じみた空も、奥に向かうにつれて群青を増していた。その中心に太陽があった。  その太陽の光が、不意に視界の端で反射して見えた。  反射したのは、トールの鱗だった。洗われたうちのいくつかが、ちょうど日光を反射しているのだった。  薄く水を湛えた鱗はいま、緑っぽい青色に輝いていた。  ああ、と思った。この色を、どこかで見た気がする。思い当たるまでに、そう時間はかからなかった。あの朝だ。路上でぶっ倒れたまま、夜明けを見て過ごした、あの朝…… 「ありがとうございます」  もう一度、呟くような声がした。今度は何も答えずに、背中に向かって水を飛ばした。飛沫がすぐに虹を作り、大きな鱗を青緑色に濡らした。  その後も私は一時間ほど、彼女に水を流し続けた。彼女はその間ずっと、静かに目を閉じていた。