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あなたのなかの忘れた海

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市川雛菜・樋口円香
市川雛菜・樋口円香

 雛菜が車を停めたのは、小さなコンビニの駐車場だった。既に夜中の12時を回ろうという時刻で、二人が参加した小規模な打ち上げが終わってから、ゆうに30分は経っていた。道は空いていたし、雛菜のシトロエンは精悍な走りを見せている。ガソリンはまだたっぷり残っていた。  雛菜がウィンカーを出し、駐車場へ車を滑り込ませた途端、「何」と円香が苛立たしげな声を発した。ここまで来れば、円香の家はすぐそこだった。 「円香先輩、どっか行きたいとこある~?」雛菜はゆったりと車を駐車スペースへ突っ込んだ。 「は?」と円香は言った。「別に。もう帰るだけでしょ」 「え~? 雛菜は、遠回りしたっていいよ~」 「一人で行けば。私はそこで下ろして」 「へ~? 歩くにはちょっと遠くない~?」 「そう思うなら、ちゃんと送って」 「行かないの~?」 「私はいい」 「そう~?」  ギチギチと音を立てて、ギアがパーキングに入った。  雛菜は円香の顔を見たまま、しばらく黙っていた。雛菜からしてみれば、円香こそが、どこかに行きたがっているように見えていた。国道の広い通りを走っているあいだ、円香は窓の外をぼんやりと見つめ、唇をうすく開き、ときおり深く息を吸った。そんな姿を横目に、しかししっかりと見ていたからこそ、雛菜は一旦車を停めることにしたのだった。もちろん、円香はそういった機微には気付いていないだろう。雛菜は思った。こういうところに関しては、未だに円香は雛菜を見くびっているきらいがある。短い時間ののち、ようやく観念したように、円香が口を開いた。 「海」 「なに~?」 「海に行きたい。どこでもいいから」 「りょうか~い!」  雛菜は勢いよくギアをリバースに入れた。  コンビニから国道に戻ると、インターを示す緑色の標識が小さく見えた。

 高速を走っているあいだ、しばらくは沈黙が続いた。  運転する雛菜は、じんわりと汗をかきはじめた。車内はやや暑い。晩は冷え込むからといって、暖房までつけたのは間違いだったかもしれない。生暖かい風が頬を火照らせた。七部袖のブラウスが腕にまとわりつき、不快なねばりを持った。雛菜はハンドルを両手で握りながら、横目で円香を盗み見た。円香が暑そうにしていたら、エアコンを切ってもらおうと思った。  円香は、相変わらず外を眺めていた。道路沿いを照らすオレンジの照明のなかにあって、彼女の顔はひどく白いように見えた。ゆるいパーカーの袖は、手首までをすっぽりと覆ったままだ。そこから覗く手に触れれば、うすく震えていることがわかるのではないかと思えた。円香は何度かゆっくりとまばたきをし、細く息を吐いた。その息が、ガラスを白く曇らせるように見えた。雛菜は手を伸ばし、つまみを回してエアコンのスイッチを切った。円香は何も言わなかった。  いくつかのパーキングエリアを過ぎたころ、円香が呟いた。 「今日の現場」 「うん~?」 「表情に深みが出た、って。あの、眉毛のディレクターが」 「ん~、よかったね~」 「本当にそう思う?」 「円香先輩はどう思ったの?」 「……」 「あんまり、変わらない?」 「変わってるように見えないでしょ、実際。何か変えた覚えもない」 「雛菜も言われた~。いい顔ができるようになった~、って」  雛菜はディレクターの口ぶりを真似て口を尖らせた。それがおかしかったのか、隣からの声色が若干柔らかくなった気がした。 「やっぱり。噂でも聞いたんでしょ。それで判断してる」 「え~?」 「私たちのことなんて、何にも知らないのに」 「あは~、そうかもね~」  気の抜けた返事を返しながらも、雛菜は苦々しく思う。円香先輩、自分がどう見られてるか、なんてことばっかり察し良すぎ! 自身の見せ方がそのまま評価に繋がるこの業界では、確かにその洞察力は武器にもなるだろう。けれど、そういった野生じみた誇り高さが、円香自身を削っていることは間違いない。そうして今夜、彼女は海に行きたいと漏らすまでに弱ってしまったのだ。円香は相変わらず、細い息を吐いていた。  高速の高いフェンスの合間に、黒ぐろとした海が一瞬覗いた。ETCのランプが点いていることを確認し、雛菜は左にハンドルを切った。

 殺風景な下道を走りながら、雛菜は昔のことを思い出した。高校生になったばかりの頃。雛菜はただ自分がしあわせになれることを――今と同じように、ずっと同じように――行ってきただけなのだが、先生方からの評判はあまりよろしくなかった。最初からそうだった。雛菜が栗色の髪を揺らし、初めて教室で点呼に応えたときから、雛菜は先生の目が注意ぶかく自分に注がれているのを感じた。自分ではわからなかったが、先生にとってはなにか、自分の意に沿わない生徒を見分ける勘が備わっていたのだろう。だから、雛菜も先生の評価など、はなっから当てにしてはいなかった。その時の先生の名前すら、もう覚えていない。  しかし、幼馴染にとっては、それは一大事だったらしい。雛菜の幼馴染は、必死になって慣れない大声を出し、先生に貼り付けられたレッテルを剥がそうとしたのだった。雛菜はそのことを、素直に嬉しく思った。けれど、一方で不思議にも思った。仮に先生が雛菜を見直してくれたとして……それが、どうだっていうんだろう? 色々な人の中に色々な雛菜がいること、それを面白いとは思うけれど、その雛菜を作り直したところで、何か意味があるんだろうか? 私たちのことなんて何にも知らない。なのに勝手に判断を下す。そういう人だって確かにいるかもしれない。でも、だから何なのだろうか。雛菜には、その先がわからない。

 海水浴場が近いにしては意外なほど閑静な住宅街を抜けると、いきなりフロントガラスいっぱいに目的の海が広がった。月は細く、淡白な街灯の明かりは心もとない。その道沿いの明かりが照らす砂浜の向こうに、ちらちらと明かりが反射しているのが見える。真夜中の海は高速から覗いたときよりも、遥かに生々しい重みを持っていた。雛菜はそのまま左にハンドルを切り、海沿いの道をしばらく進むと、手頃なコインパーキングに車を停めた。  雛菜が車を降りて鍵を閉めようとすると、円香はまだシートベルトも外していない。 「ちょっと、円香先輩~?」 「ああ……うん」  雛菜が促すと、円香は素直に車から降りた。  海辺の風は肌寒く、夏らしい強い潮の香りがした。広い海水浴場だったらしく、海岸線ははるかに続いているが、街灯3本分より先は曖昧になっていてよく見えない。二人はなんとなく階段を下り、砂浜にほど近い段に腰を下ろした。砂はそれなりに溜まっていただろうが、ろくに見えもしなかったし、気にしなかった。  二人はしばらく並んで海を見ていた。肩はふれあわなかったし、手を握ることもなかった。しかし、互いの息遣いは確かに聞こえていた。  円香が息を吸い、それを途中で切り上げた。雛菜はそれを聞いた。 「寒くなってきた」円香が言った。 「もういいの~?」 「いい。て言うか……何だろう」 「何~?」雛菜が首をかしげた。 「違った……かもしれない」 「へ~?」 「この海じゃない、っていうか……これ以上、ここにいても仕方ない」  波は見えなかったが、潮騒は妙に遠く聞こえ、決して会話を遮る音量ではなかった。二人の間で言葉が途切れると、その潮騒も退いていくようだった。雛菜はふたたび、円香の息遣いを聴いた。何度か規則的な呼吸が繰り返された後、力を入れるように呼気が止まった。立ち上がろうとしているのだった。 「でも、海はぜ~んぶ繋がってるでしょ~?」それを制するように、雛菜が被せた。「いっしょだよ、どの海も」 「そういうことじゃなくて」円香はいったん入れた力を抜くと、もどかしげに、膝に肘を乗せた。「わからない? 私達がアイドル始めたころ、花火大会で歌ったことあったでしょ。音響は最悪で、ステージも狭くて、ぱらぱら人がいる。でも、誰も私達の歌なんて聴いてない。で、その後海に入った。あの時の海と、今の海って、全然違う……そういうの」 「ん~」雛菜はしばらく、そのことについて考えてみた。「じゃあ、円香先輩の見たい海って~?」 「分からない」 「え~!」雛菜の声はかすれていた。「昼とか夜とか、人がたくさんいる~とか、誰もいない~とか、そういうのは?」 「さあ。全然」 「じゃあ、それって本当にあるの?」 「あると思う」円香は遠くを見るように呟いた。「分からないけど」  二人はそれからしばらく黙った。雛菜の手は身体の横に添えられていたが、円香は膝を抱える格好だったので、二人の手が触れ合うことはついになかった。円香はちいさく息をした。その横顔は、やはり不自然なほどに白かった。  雛菜は思う。円香先輩の中には、円香先輩の海がある。雛菜はきっとそれに触れられないし、一緒に見ることだってできないかもしれない。けれど、円香先輩が自分の海を見つけるとき、隣に座っていることは、もしかしたら、もしかしたらできるかもしれない。 「円香先輩」 「何」 「寒いし、帰ろ~?」 「さっきから、そう言ってる」  二人は脚に力を入れて、座っていた段差から立ち上がった。砂がぱらぱらと服から零れた。そうして車に戻るまでのあいだ、二人は一度も、振り返って海を見ることはなかった。