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楽園より・上

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大崎甜花・大崎甘奈
大崎甜花・大崎甘奈

 神木の靈效は立ちどころに現はれた。二人は泥のやうに醉つて、大地狹しとよろめきながら、 頻りに脇腹を撫でゝ、早や天人の群に入つたやうな言葉使ひ可笑しく、暫時うれしげに躍りくたびれて、 やがて、日ざかり涼しい晝寢の床に果敢ない夢を貪つた。 ――繁野天來『失樂園物語』

 薄いベージュの幕の向こうには、今日も楽園が待っている。  青空を棚引く雲の上には、色鮮やかなおもちゃやマスコットキャラクターたちが踊るよう。大理石を模した床は清潔にしんと冷えていて、眩しいくらいに輝く照明を柔らかく受け止める。それらに囲まれるようにして、神様じみた微笑みの司会者と、老若男女のお客さんたちが、私たちの現れるのを今か今かと待っている。やがて軽快な音楽が響けば、薄い幕越しに、身体の芯から熱くなるようなスポットライトが降り注ぐ。  この楽園は、今から私たちのために開かれる。 「さあ登場していただきましょう、本日のゲスト……大崎甜花さん、甘奈さん!」  ひときわ大きな声と同時に幕が開き、私たちは揃って笑顔で足を踏み出す。 「こんにちはーっ☆」 「こ、こんにちは……!」  スタジオを見渡す途中で、一瞬なーちゃんと目が合う。それだけで、その瞬間に、私は今日も確信する。  大丈夫、私たちはやり遂げられる。二人のために、楽園はある。

 トークはここ最近お決まりの話題から始まった。 「甜花さんと甘奈さんといえば、お二人のダンスの動画がSNSで話題になっているようですが、私も見ましたよアレ。本当に仲がいいんですねえ」 「見ていただけたんですか、ありがとうございます!」 「あっ、ありがとうございます……!」  明るくさっぱりとした妹の返答に、慌てて私も追従する。 「あの抱き合うような振り付けは、ご自身で考えられたんですか?」 「そうですね、オフの日に少しずつ考えて、二人で練習して」 「それはすごいですね、さすが甘奈さんというか」 「そんなことないですよー、甜花ちゃんが協力してくれたおかげです」 「甜花、頑張った……!」 「そうでしょうねえ、その結果が、この反響に繋がっているということで」  視界の端で、静かにカンペがめくられた。近況もそこそこに、次は私たちの休日に関する話をするらしい。 「お二人とも随分忙しいと思いますが、動画まで撮るとなると、どうですか、ちゃんと休めてます?」 「大丈夫です! そのあたりは、ちゃんと調整していただいてるので」 「とっても、ぐっすり寝てます……!」 「そうですか、それはよかった。もしかして、オフの日も二人で過ごすことが多いんですか?」 「はい、最近はお休みが一緒になることも少なくなってきたので、予定を決めて二人で過ごすようにしていて……」  なーちゃんが流暢に話すのを聞きながら、私は静かに頷いた。二人とも個人の仕事が増えて、オフの日が被らなくなってきたのはちょっと前から。そして、そのことでなーちゃんが寂しさを抱えていたことを知ったのはつい最近のことだった。どうしようもなく鈍くて、考えが回らなくて、彼女の悲しみを掬い取れなかった私に、彼女自身が勇気を持って打ち明けてくれたのだった。その苦しさと緊張は、どれほどだっただろうか。あの滲んだ夕日と震える声を思い出す度に、私は今でも妹を抱きしめたいような衝動に駆られる。  だから、その後は二人で一緒に過ごす予定を決めることが増えた。以前のようにずっと二人でいることはできないが、彼女がどうしても抱えることになるさびしさを、私が少しでも埋められたらと思った。なーちゃんは私の一人で過ごす時間に気を遣ってくれているようだし、私も二人で過ごす時間を大事にしているつもりだった。そのささやかな軌道修正は、今のところうまくいっているように思えた。 「一緒にお買い物行ったり、家でゆっくりしたり、次のお仕事の準備をしたり」 「そうですか、でも、それってなんだか」  しかし、この軌道修正は、思わぬ効果を私にもたらした。  なーちゃんと話すとき、緊張してしまうようになったのだった。 それは庭の隅の水たまりのようにささやかな、けれど決定的な変化だった。日常的に会っていた妹と会えない時間が増え、取り決めておいた会える時間を待ち遠しく感じるにつれて、私はどうにもどぎまぎするようになってしまった。四六時中一緒にいたからこそ、改めて会うとなると何を伝えていいかわからない。どういう顔でいればいいかわからない。なぜって、それはまるで…… 「デートみたいですねえ」 「ひゃいっ」  私は思わず素頓狂な声を上げた。そしてすぐに後悔した。今の単語に、反応してはいけなかっただろうか。こんな軽いやりとりに慌てるのは、妙だと思われただろうか。恐る恐る顔を上げる私に、なーちゃんは優しく微笑んだ。そして、その咲き誇るような微笑みのまま、はっきりと答えた。 「はいっ、甘奈は最近、甜花ちゃんとデートしてるんです」

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 収録の翌日、私は所在なく駅前に立ち尽くしていた。今日は二人とも午前で仕事が終わるので、一緒に服を選びに行く約束をしていた。けれど、なーちゃん側の仕事は若干押しているらしく、私の方が早く着いてしまったのだった。 何の用事にしても、だいたい待たせるのは私の方なので、いざ待つ側に回ってみると、どう時間を過ごしていいものかわからない。手癖でスマホを触り、スタミナが余りそうなゲームやツイスタのサブ垢を開いてみるけれど、どうにも集中できず、すぐに閉じてしまう。新曲の歌詞も台本も、全然頭に入ってこない。  落ち着かない時間を過ごしていると、ふと顔を上げた途端、待っていた人が近づいていることに気がついた。まだ姿も見えないし、声も聞こえないのだけれど、はっきりとそれがわかる。長らく一緒に過ごしてきたことで備わった、私だけの勘のようなものかもしれなかった。たったそれだけのことで、胸の中で真白い綿がふわふわと膨らむような心地がする。  果たして、数秒の後に、人混みから見知った姿が勢いよく飛び出した。 「甜花ちゃん、ごめん……! 待った、よね……!」 「ううん、全然……甜花、ゲームして待ってたから、大丈夫……!」  息を荒げてまで走ってきた妹の背中をそっと擦ると、彼女はありがとう、と微笑んだ。その顔だけで、もう待ってよかったな、なんて思えてしまう。息を整えたなーちゃんが顔を上げると、甘めのブラウスに添えられた、主張しすぎない程度のフリルがそっと揺れる。髪はきっちり編み込んであり、その間から覗く可愛らしい耳には、ハートのピアスがきらりと光る。対する私は、これからたくさん試着するのだから、と誰にともなく言い訳をし、脱ぎ着を最優先にした飾り気のない格好。  急に恥ずかしくなってきた私の様子に感づいたのか、なーちゃんが私の手を引いた。 「ほら、甜花ちゃん、行こ! 今日はいっぱいかわいー服買っちゃうぞーっ☆」 「お、おーっ……!」  なーちゃんの高らかな宣言通り、一軒目の店に入るや否や、私はすぐに着せ替え人形にされた。一着を着終えてカーテンを開くと、なーちゃんは「甜花ちゃん、かわいいよーっ☆」と目を輝かせたり、首を傾げたり、ぶつぶつ呟いたりしてから、どんどん次の服を持ってくる。そうして私は、仕事でもめったにないほど大量の服を着ることになった。ワンピース、ブラウス、普段なら絶対着ないような動きにくいドレスまで……  アイドルになってから、私を着せ替え人形にすることはなーちゃんだけの特権ではなくなった。ファンの皆は、私の知らない私を見つけてくれるし、私となーちゃんが考えもしなかったような衣装を着せてくれることもある。皆のおかげで、私はアイドルになれているし、着せ替え人形になれている。それはもちろん、何度再確認しても足りないアイドルとしての私の地盤だった。  けれど、それでも、なーちゃんが選んでくれる服は、私にとっては特別なものだった。似合うからとか、可愛いと思えるからという理由はもちろんあるけれど、何よりもそれは、なーちゃんが選んでくれた私を形作るものだから。できる限り着ていきたいし、大事にしたいと思う。時々、着るのが面倒になって、楽な昔の服を選んでしまうこともあるけれど、それでもだ。たまには、本当に似合っているのか不安になるときもあるけれど、なーちゃんも以前言っていたように、不安でも胸を張らないといけないのだ。一番大好きな人が、好きだと言って選んでくれた自分には……  一番大好きな人? 「甜花ちゃん、次はもうひとつ大きいサイズで……」  突然カーテンが引かれ、わくわくが顔いっぱいに広がったなーちゃんと目が合った。が、その瞬間、彼女の表情がぴしっと音を立てて固まった。  なぜだろう? と不思議に思って見下ろすと、ぼんやり考え事をしていた私は、さっき貰った服を脱いだ、そのままの下着姿で…… 「ひゃうっ⁉」 「わわっ⁉ ごめん、甜花ちゃん……!」  勢いよくカーテンが閉まって、足音がどたどたと遠ざかっていって、ようやく大きな息をつく。その後も、私の心拍数はしばらく戻らなかった。  けれど、なぜだろう。これまでは、一緒に着替えることも、なんなら一緒にお風呂に入ることだってあったのに、どうして今更どきどきしているんだろうか。

 休憩のために入ったのは、いつか来たことのあるブックカフェだった。甘い紅茶を注文し、あたりを見渡せば、あの頃は小説や文芸誌も多かった気がする棚には、カラフルなグルメ本や旅行ガイドがのびのびと広がっていた。時流の変化、というやつかもしれない。かつて来たときからの時の流れを思って、なんとなく感慨深い気分になった。 「あ、甜花ちゃん、これ!」  いつの間にかなーちゃんが広げていたのは、そうした旅行ガイドの一角にあった、世界の綺麗な都市をめぐる写真集だった。  なーちゃんは、一ページの写真を指さしていた。写っているのは、地中海風のすっきりと晴れた空と、ターコイズブルーの海。そして、その際まで立ち並ぶ、パステルカラーの家々。その屋根はどれも、光を透かしたなーちゃんの髪のような色だった。 「きれい……」  思わず呟くと、「だよね!」となーちゃんが頷いた。その目は、すでに憧れに満ちている。 「いつか二人で、行けたらいいね!」  そのなーちゃんの言葉を、私は口の中で反芻する。いつか、二人で。なーちゃんと過ごす未来を想像すると、飲み下したアイスティーがしゅわしゅわとはじけるようだった。 「えっとー……フランス、サン・トロペ、だって」 「聞いたこと、ない……」 「やっぱり、大人の人と一緒じゃないと難しいよね? そのうち、お仕事で海外ロケとか入ったりするかな?」  なーちゃんと行けるなら、どこでも楽しそう、と言おうとしたけれど、甘いシロップのせいか舌がもつれ、「あぅ」としか言葉にならなかった。 「甜花ちゃん、どうしたの?」 なぜか、もう一度言い直す勇気は、今の私には出なかった。

「ただいまーっ☆」 「ただいま……!」  結局その後も何軒か回り、私たちの両手は色とりどりのショッパーでいっぱいになった。大きい荷物を抱えたまま電車に乗って帰ってきたので、体力のない私としてはもうあとは寝るだけ、といった状態なのだけど、まだ今日はもうひとつイベントが残っている。買ってきた服を部屋で着直して、二人きりのファッションショ―を開くのだ。 「甜花ちゃん、どれから着る?」 「えっと、最初に買ったワンピースから……」 「了解! 楽しみだな~」  紙袋を抱えて階段を登ると、更衣室兼ショー会場は私の部屋だ。私が着替え終わったところで合図をすると、なーちゃんがそっと扉を開けては、目を輝かせて私の姿を褒めてくれる。  まずは、フェミニンに広がる形のワンピース。 「すごいよ甜花ちゃん、世界一かわいいよー!」  次は、ちょっと攻めた丈のデニムスカート。 「完璧だよ甜花ちゃん、最高にキュートだよー!」 そして、上品なきれいめのブラウス。 「綺麗だよ甜花ちゃん、誰よりも似合ってるよー!」  と、なんだかほとんど変わりないような、けれどそれぞれ最上級の絶賛を受け続けたところで、私は一通りの服を着終える。  元の服に着替えるため、なーちゃんが出ていくと、突然部屋がしんと静かになったような気がした。よく考えたら、朝から今まで、こんなに静かだった時は一瞬もなかったかもしれない。楽しかったなーちゃんとの一日の終わりが、もうすぐそこまで近づいている。  ふと辺りを見回すと、盛り上がったファッションショーの後には、脱いだばかりの新品の服が散らばっていた。その普段見慣れない華やかさに、私は眩しさを覚えてしまう。それと同時に、なーちゃんがいっぱいに時間をかけて、私のことを考えて、こんなにも沢山の服を選んでくれたという事実に、手足がじんわりと温まるような喜びを感じる。  もはや、あまり難しいことを考えられない自分でも、はっきりと結論が出てしまっていた。  私、大崎甜花は、なーちゃんのことを愛している。  そう認めた瞬間、息をするたびに体の中が澄んでいくようだった。そうなんだ。私は、なーちゃんのことを―― 「甜花ちゃん、着替え終わった?」  突然、ドアが開いた。隙間から顔を覗かせたなーちゃんは、私がまだ先程と同じ服を着ているのを認めると、慌てて顔を引っ込めようとした。 「ごめん甜花ちゃん、もうちょっと待……」  その閉じようとしたドアを、すんでのところで止めた。きょとんとした顔のなーちゃんを、そっと部屋の中へ引き込む。今、言わなければいけない気がした。今、言わないと伝わらない気がした。 「あのね、なーちゃん」 「どうしたの? 甜花ちゃん」 「甜花、……なーちゃんのことが、好き」 「えーっ、私も甜花ちゃんのことが大好きだよっ」 「ち、違う……いや、そうかもしれないけど、そうじゃなくて」 「えっ? どういうこと?」 「えっと、甜花の好きは、違うかもしれなくて……あう」  どうしても、うまく伝える言葉が出てこなかった。だから、身体を動かすしかなかった。 「こういう意味で、なーちゃんのことが、好き、れひゅ……!」  言いながら、なーちゃんの唇に、自分の唇を押し当てた。  キス、というには不格好な、だけどそれは確かにキスだった。ファーストキスはなんとかの味、と聞いたことがあるが、味なんて全然わからなかった。ただ自分で飛びついておいて、彼女のくちびるのあまりのやわらかさに驚いていた。所在なく硬直していた腕をおそるおそる背中に回すと、なーちゃんも固まってしまっているのがわかった。 私は唇をそっと離して、彼女の背中を擦った。そうして、彼女の緊張が解けるのを待った。いつかのように、あるいは泣きながら、彼女が私に「一番大好きな人」と答えを返してくれるのを待った。  しかし、彼女の緊張が解けることはなかった。 「……ごめんね、ありがと」  彼女はそっと、けれど確実に、背中に回された私の手から逃れた。なんとか絞り出したようなその声は、喉の奥にひっかかって微かにかすれていた。 「私も……ううん、ちょっとびっくりしちゃった。ごめん、今日は先に寝るね」  俯き加減にそう呟くと、彼女は吐き気をこらえるように、足早に部屋を出ていった。 残されたのは、鮮やかな服と、立ち尽くす私だけだった。 ふと、視界の端に動くものがあった。見ると、それはこわばって小さく震える、節ばった私の指だった。黒ぐろとした大型のゲーミングディスプレイが、私の姿を反射しているのだった。 そこに映る、自分の顔を見た。呆然と蒼白いその貌のなかで、彼女に触れた唇だけが妙に色づき、血色のいい艶を湛えていた。 禁断の果実に口づけた、神話の罪人のようだった。