楽園より・下


神木の靈效は彌著しく現はれた。粟飯かしぐほどの夢の間に、 無邪清淨であつた彼等が五體は、穢い塵土の昔に歸つて、 妹背の神山に似た神々しさも、今は煤烟いぶせき煙突の姿淺間しく、 長へに煩惱の焔を吐いた。 ――繁野天來『失樂園物語』
キスをした翌日、階段を降りると、居間にはすでに妹の姿があった。 「おはよー、甜花ちゃん」 何でも無いように笑ってはいるが、声にも佇まいにも、いつもの覇気が見られなかった。演技はめきめきとうまくなっているのに、日常の弱みを隠すことはいつまでたってもうまくならない。あるいはそれが、彼女の周りに人を惹きつける線の細い魅力に繋がっているのかもしれない、と思うと、どこか憎らしいような気さえした。 「おはよう」 昨日までなら顔を直視できないところだったが、今日は目を逸らすのは妹のほうだった。彼女は準備に忙しいふうを装い、すぐに目前の小さな卓上鏡に向き直った。その努めて表情を隠すような横顔を、火が出るほどに見つめた。 キスから逃げられ、告白を有耶無耶にされ、昨夜はなかなか寝付けなかった。呼吸がうまくできなかった。世界の全てが重力を増し、自分の上に伸し掛かってくるような気さえした。しかし、よく考えてみれば、あの反応は不可解でもあった。断るのならば、断ればいい。相応の場数を踏んできた彼女なら、波風の立たない断り方もわきまえていたはずだ。しかし、彼女は「私も」と言いかけて逃げた。そこには何か、気にかかるものがあったのではないか。 最愛の妹。大好きななーちゃん。甘奈。彼女は何を考えて、私の細い首を握ったまま宙吊りにしているのだろうか。 まずは、それを突き止めなければならない。 「あっ、もうこんな時間⁉ 行ってきます!」 とはいえ、仕事が減ることはない。白々しく席を立つ彼女を口惜しく見送りながら、私は心の底がどろどろと冷えていくのを感じた。
***
それは、思ったより早く見つかった。 事務所に入ろうとドアノブに手をかけたところで、扉の向こうから甘奈の声が聞こえた。私は反射的にノブから手を離した。金属の軋んだ音が鳴ったが、扉の向こうの彼女は口を動かすのに夢中で、聞こえてもいないようだった。 ドアに耳をそばだてて聞くと、彼女は妙に浮き立った声色で、何かを矢継ぎ早に話しているようだった。私は疑問に思った。甘奈の話し方は、こんなに地に足のつかないものだっただろうか? 常にどこかに無意識の自信を携えたような、堂々とした話し方をするのではなかったか? こっそりとドアを開き、甘奈の表情を確認しようとしたところで、もう一人の声が聞こえてきた。 「ああ、俺もその時間には会場に入るようにするよ。だから、甘奈は……」 私は愕然とした。ドアの隙間から見えた甘奈の表情は……あの声色は、私だった! 間違いなく、彼女は、私たちのプロデューサーに恋をしていた。 自分が自分でなくなるような苦しみと快楽、相手から見た自分と自身の把握する自分がぶつかっては削れていく感覚、その燃え立つようなダイナミズムの中で、彼女は熱に浮かされたように喋っていた。その姿は、昨日までの自分と全く重なって見えた。 衝撃に、私は握りつぶされそうになった。なぜ今まで気付かなかったのだろう? それは、私が恋を知らなかったからだった。いつだか甘奈は、恋愛ドラマについて、共感するところのあるような口ぶりで話していた。その時からすでに、甘奈は恋をしていたのだ。もしくは、それよりもずっと前から。 正体の見えなかった障害が、ここまで明確な形をとるに至って、私は手足の先が冷えていくような気がした。自分が呑気に彼女との距離感を探っている間にも、彼女の側は取り返しのつかないところまで行ってしまったのではないか。だが、彼女とプロデューサーの会話を聞いていると、どうやら二人の間には、そこまでの繋がりは形作られていないようだった。 それならば、と私は思った。いくらでもやりようはある。もちろん、やりようがない状態でも、そんなことは関係なかった。私は既に、禁断の木の実に口をつけてしまったのだ。もうとっくに、戻れる場所にはいない。この先が穢土でも地獄でも、行き着くところまで行くだけだ。 唇を舐めると、リップクリームの油分が不快にぬめった。
その晩、彼女の部屋を訪ねた。 甘奈は戸惑った様子ではあったが、それでも扉を開けて、私を招き入れてくれた。その不用心さが、私に対する信頼を、もはやほとんど価値をなくした親愛を示すように思えて、無性に悲しくなった。 その信頼を、私は今から裏切る。 彼女は気まずさを打ち消すように、よく喋った。次の動画ではどの曲を使いたいか、新しい台本がどれだけ面白いか、何の興味もない話を並べ立てて、なんとか私をそちらに夢中にさせようとしているようだった。そうすれば、元の姉妹に戻れるとでも言うように。そんな小狡さが彼女にあるとは思わなかったが、おそらくまだ私と向き合う準備ができていなかったのだろう。話題の切れ目に見せる顔には、ごまかすことへの罪悪感が滲んでいた。 そんな甘奈の姿は、もう見たくなかった。もうこれ以上、彼女の話を聞きたくなかった。 「今日、事務所、行ったんだけど……」 話題の切れ目に私が差し込むと、彼女は大げさに驚いてみせた。 「えっ、いつ? 甘奈、ずっと事務所にいたのに、全然気付かなかったよー!」 「えっと、昼前、くらい……」 「うーん、その時間なら……」 「なーちゃん、プロデューサーさんと、喋ってた」 「えっ、ああ……そうかも」 彼女が照れたように話すので、頭に血がかっと上った。それでも、努めて冷静に、親しみをもって話しかける。 「甜花、それで、わかった」 「えっ、何が?」 前髪の間からしっかりと、ただ戸惑う甘奈の目を見つめた。そして、なるべく柔らかく微笑んだ。 「なーちゃん、プロデューサーさんのこと、好きなんだ」 彼女が硬直するのが、はっきりとわかった。 「え、えっと……」 「わかるよ。甜花も、恋、してるから」 甘奈の細い喉から、ひっと息を呑む音が聞こえた。 「う、ううん……違う、いや、違わないかもなんだけど」 甘奈は顔を真っ赤にして、嫌がるように首を振りながら、曖昧に呟いた。 「プロデューサーさんは大好きだけど、甜花ちゃんも大好きで……でも、それが恋なのかって、まだわからないっていうか」 「どうして」 「え?」 「どうして、わからないの……?」 「て、甜花ちゃん⁉」 私が泣き出しそうな顔を作ると、甘奈は目に見えて慌て始めた。 「どうしたの? 疲れちゃった? どこか痛いの?」 「あのね、なーちゃん……この間の、話だけど……」 彼女の身体に力が入るのがわかった。 「う、うん」 「やっぱり、甜花、伝えきれなかったんじゃないかって、思って」 彼女は一瞬呆然としたようだったが、すぐに首を振った。 「ううん、そんなことないよ。ただ、すぐには返事が」 「違う、なーちゃんは……この苦しさを、わかってないから……恋じゃないかも、なんて……」 私が涙を滲ませた途端、彼女は身を乗り出して、私の肩に手を置いた。力の入れ具合がわからないのか、彼女の指は私の肩の上でぎこちなく滑った。 「甜花ちゃん……」 逆らわない格好で、甘えるように彼女を引き寄せた。頭の後ろに手を回すと、彼女は慈しむように私の肩に顔を埋めた。私が落ち込んだとき、彼女が落ち込んだとき、度々抱きしめ合っていた、そのままの格好だった。 その耳許に、息を含ませるように囁いた。 「だから、もう一回するね」 彼女が身をこわばらせるより早く、頭を抱えた手に力を入れ、唇に唇を押し当てた。 一瞬、暴れるように手が離れたが、それでもゆっくりとその手は私の肩の上に戻ってきた。何度もキスをすると、その手はゆっくりとしなだれ、私の背中に回された。 「なーちゃん……」 体ごと寄せるようにして、唇で彼女の耳に触れた。彼女は身をすくませたが、振りほどこうとはしなかった。そのまま、抱きしめた背中に、ゆっくりと指を滑らせ、彼女の耳に舌を這わせる。甘奈は黙ったまま、時折小さく震えた。 ブラウスの裾をそっとめくり上げ、背中に直に指を這わせた。久々に触れた彼女の素肌は、火傷しそうなくらい熱かった。こつこつとした背骨に沿ってゆっくり撫で上げると、彼女の吐息が私の肩を湿らせた。 そのままブラジャーの硬い生地に手をかけると、彼女は我に返ったように顔を上げた。 「ま、待っ」 その唇をキスで無理矢理塞いで、ホックを外した。外すのは慣れていた。彼女が大人のブラをつけ始めたとき、私たちはまだ一緒にお風呂に入っていたのだ。 ブラウスのボタンを外す途中で、呼吸の浅い彼女と目が合った。力なく開いた唇にキスを落とし、舌で唇をつつくと、彼女は呆気なく唇を開き、それに応えた。しばらくその感触に夢中になりながら、自分の上もはだけると、裸で向かう合う格好になった。 いつぶりかの甘奈の裸に、目の前がくらくらする。意識を手放さないよう、必死にしがみついている感覚だった。踏みとどまるなら今が最後なのだろう。ここを滑り落ちたら、もう二度と、戻れないような気がする。 目を瞑ってこらえている私の頬を、温かいものが撫でた。甘奈の手のひらが、私の輪郭をそっとなぞっていた。 「甜花ちゃん……」 その瞬間、私は滑り落ちた。戻れないというならば、あの夜、甘奈にキスをしてしまった瞬間から、もう私は戻れなかったのだ。 鎖骨から乳房までキスを降らせると、彼女の喉からくぐもった声が上がった。太腿の内側をそっと撫でると、彼女は嫌がるように足を擦り合わせた。その波打つ全身が、それぞれ全く別の生き物のようで、蠢く群れの餌場に投げ込まれたような気持ちになる。 くだけたゼリーの熱い感触へ指を伸ばすと、甘奈は跳ね上がるように私の腕を掴んだ。 「だめ、甜花ちゃん、そこは」 構わずに指先を埋めると、甲高い声と同時に、私の腕に爪が食い込んだ。もう、何を止めても遅かった。私は自分のどこを擦れば気持ちいいか、どこで曲げれば気持ちいいかをよく知っていた。そして、自分が気持ちいいことは、彼女にしても気持ちいいはずだった。そういうふうに、できてしまっていた。 「甜花ちゃん、甜花ちゃん」 うわ言のように叫び続ける唇を自分の唇で塞ぎ、無我夢中で天井を押すと、声にならない声と同時に彼女がひときわ大きく震えた。それと同時に、私もベッドへ倒れ込んだ。 波が収まるまでの間、二人とも一言も話さなかった。呼吸が規則的なものに戻り、言いようのない甘やかな眠気が私の表皮を覆いはじめたとき、甘奈はぽつりと呟いた。 「甜花ちゃん、ひどいよ」 そして私のほうに寝返りを打つと、もう一度囁いた。 「ひどい」 彼女の真白い喉に、ひとつキスをした。彼女も、私の喉にキスを返した。
***
衣擦れの音に目を覚ますと、シャツを羽織った甘奈の横顔が見えた。今日は朝からソロの仕事が入っているはずなので当然といえば当然なのだが、それでもこんなことがあった後で何食わぬ顔で身支度ができるのか、と驚いた。ということは、昨夜のことは甘奈にとってポジティブな意味を持ったのかもしれない。そう期待してもいいのだろうか。 「あ、甜花ちゃん、起きちゃった? ごめんね」 甘奈はこちらに柔らかな微笑みを向けると、そのまま屈んでキスを落とした。面食らう私と目が合わないように、彼女はそのまま服を着る腕に視線を移した。 「あのね、この前の返事だけどね」 レースのカーテンから漏れる日差しのなかで、彼女の耳は薄桃色に色づいて見えた。 「甘奈も、なーちゃんのこと、好きだよ」 「え、それって……」 「こういう意味」 言葉と同時に、唇に柔らかい感触が降りてきた。頭の周りを漂っていた眠気の雲は、一瞬で吹き飛ばされた。 「じゃ、じゃあ、行ってくるね!」 彼女は走るように部屋を出ていき、そのままどたどたと階段を降りる音が聞こえた。 それからしばらくは、雲の上を歩くような気分で過ごした。自分の一番好きな人が自分のことを好きと言ってくれた、それだけのことが信じがたい奇跡のように思えた。今まで何万往復もした「好き」が、あの朝から生まれ変わったような気がした。甘奈さえいれば、他の何もいらない。そう本気で思えた。 甘奈の方も、そう思っていると信じられた。視線を交わすとき、手を握ったとき、身体を重ねたとき、二人の間にはどれほどの言葉よりも雄弁な交信が開かれた。全身といわず、もはや存在そのものがコミュニケーションのための意味を持つように思えた。恋人だから、ではきっと足りず、双子だから、でもまだ欠けていた。私と甘奈だからこそ、これほどまでに通じ合うのだと信じた。 しかし、ある日事務所に入ったとき、私は自らの思い上がりを思い知る羽目になった。 ドアノブに手をかけると、薄い木板の向こうからは、いつかのように甘奈の声が聞こえた。そして、それに応えるプロデューサーの声が聞こえた。その瞬間、勢いよくドアを開け放った。 「あ、甜花ちゃん」 甘奈のはにかんだ笑みが目に入った瞬間、全身の血液が逆流するのを感じた。 そうだった。舞い上がっていたせいで都合よく頭から抜けていたが、プロデューサーのことはまだ片がついたわけではなかった。いくら先日のことがあったからといって、甘奈が一度想った相手をそう簡単に忘れられるとは思えなかった。それが毎日会う相手、毎日会い続けてきた相手ならなおさらだ。どうして、私はそれに気づけなかったのだろう。 その晩、彼女の部屋を訪れた。近頃の彼女はもはや、私がドアの前で立ち止まるだけで、自分から部屋へ招き入れるようになっていた。けだるい朝礼のような世間話をこなすと、どちらともなく距離を詰め、じゃれつくようなキスを落とす。あとははずみのついた果実のように転がり落ちて行くだけだ。 張りのある乳房に指を滑らせるとき、彼女は詰まったような息を漏らす。その乳房を、喉を、引きちぎってやりたくなるときがある。大切に柔らかく抱きしめたい気持ちと、粉々に握り潰したい気持ち、その両方が恋だというなら、それはわがままなどという言葉で済ませてよいものだろうか。悪魔のようだ、と思った。今の私は、甘奈という幼い天使に爪を立てる悪魔だ。甘奈もそう思うときがあるのだろうか。私たちは、交互に悪魔と天使を入れ替わり続ける運命なのだろうか。 ひととおり果てた後、陶器のような腹を上下させて、荒い息をつく彼女を見ていると、思わず言葉が零れ落ちた。 「なーちゃん」 「なあに?」 「プロデューサーさんのこと、まだ好き?」 甘奈は、顔を背けるように寝返りを打った。丸まった背中から、かすかに背骨が浮き出ていた。 猫のようだ、と思った。拾われてきたばかりの、家の中にいながら居場所を探している猫の背中だ。 「わかんない」 「わかんないって、何?」 「わかんないの」彼女は背中を震わせるように呟いた。「甜花ちゃんが一番大好きだし、もう甜花ちゃんしかいない、って思ってる。でも、プロデューサーさんと会って、話すときに何も感じないかって言われたら、それは無理だと思う」 「……なに、それ」 「わかんないよ、誰かをこんなに好きになったのも、誰かと好き同士になったのも、初めてなんだもん」彼女は、いつの間にか泣いているようだった。「甜花ちゃん、甘奈、変なのかな? こんなこと、甜花ちゃんに言うことじゃないよね」 「変とか、変じゃないとか……そういうことじゃ、ないと思う」 「そう、だよね」 抱きしめながら背中を擦っていると、甘奈はすぐに眠りに落ちた。身体を丸くして眠るその寝顔は、やはりいとけない天使のそれだった。 結局は、甘奈が決着をつけなければいけない話ではあるのだろう。しかし、それを待っている余裕はとてもなかった。甘奈は、まだ決めきれていない気でいる。だが、実際のところ、すべては既に来るべき終わりに向かって走りはじめているのだ。プロデューサーは永久に彼女に手を出しはしないし、私には永遠に甘奈しかいない。あとは、彼女自身が口に含んだ罪の存在を自覚するほかないのだ。 他でもない、彼女自身の選択によって。
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「はい! 第三ターミナル店、ぜひ来てみてくださーい☆」 「さーい……!」 手を振ると同時にカメラがズームアウトし、合図と共に空気が一瞬で弛緩した。生放送の一瞬の緊張感は、何度経験しても新鮮に髪をざわつかせるものがある。 今日のロケは人気スイーツ店の新店舗を紹介するものだった。若い女性に向けて家族・友達との利用をアピールしたいということで、私たち姉妹が抜擢されたのだ、とプロデューサーから説明があった。 生放送で忙しないとはいえ、撮影自体は単純なものだった。食レポを絡めた商品と内装とアクセスの紹介、いつも通りこなせば問題のない仕事だ。問題があるとすれば、場所の方だった。新店舗の場所が空港の内部なので、アクセスがあまり良くない。そのため、多忙なプロデューサーが迎えにくるまでしばらくのタイムラグが発生してしまうのだった。 心配するプロデューサーに、私は「問題ない」と答えた。その空白の時間こそが、私が待ち続けていたものだったからだ。 現場から開放されると、甘奈はひとつ伸びをして、辺りを見回した。 「プロデューサーさんが来るまで、どうする? どこかカフェでも入ってよっか?」 黙って首を振って、彼女の手を握るようにして、手の内に握ったものを差し出した。私の手には、二枚のしっかりとした紙が握られていた。 それを目にしたとき、甘奈は何かの冗談だと思ったらしい。 「甜花ちゃん、これ、どうしたの? どこかに落ちてた?」 私は首を振った。「買ったの。私が、自分で」 甘奈は、まだ事態が呑み込めていないようだった。 「買ったって……これ、今日? どういうこと?」 「今から、乗るの。なーちゃんが、甜花と」 私たちの手に握られていたのは、転がり落ちた果ての果実。正面のターミナルから出る国際線の航空券だった。いざ行くことを決めて調べてみると、諸々の手続きは思ったより簡単に済んだ。行き先はシャルル・ド・ゴール空港。そこから陸路でサン・トロペへ。その楽園のような場所が、楽園に背いた私たちの終着点だ。 「今って……今? どうして、準備も何もないのに」 「甜花は……なーちゃん、なーちゃんと一緒にいたい」 ひんやりとした彼女の手を、思い切り強く握った。今離したら、もう二度と掴めないような気がした。 「今だけじゃなくて、この先も、何年も、何十年も……わかる、よね?」 甘奈は泣きそうな顔をした。飛行機のエンジン音が遠くに響いた。全面のガラスから降り注ぐ光が、彼女の髪の輪郭を溶かしつつあった。 「それで、こうなるのは……甘奈が、プロデューサーさんのこと?」 「うん、そう」 「どうしても、こうじゃなきゃいけないの?」 「うん、甜花たちが、一緒にいるには……楽園の外に、出なきゃいけない。そうでしょ?」 彼女は、驚いたように息を呑んだ。 私たちは、そのままただ黙っていた。顔を知るスタッフたちが周りを通りがかっても、身動ぎひとつしなかった。脳内には、原色のイメージが渦巻いていた。今までのこと。これからのこと。そして握った手の確かな熱さ。そして、私は甘奈の揺れる瞳を正面から見た。 その瞬間、私たちのあいだに、無数のチャンネルが開かれた。彼女の考えが、私の思考が、考えになる前のすべての断片が、手に取るように伝わった。握った手からと言わず、言葉や表情も超越して、互いの存在そのものが、原色の渦のなかで響き合っているように思えた。ひとつの細胞から生まれた私たちは、今再びひとつに溶け合ったのだった。逃れられるはずがなかった。私たちの運命は、生まれる前から既に決まってしまっていた。交歓の奔流が過ぎ去っていくまで、私たちはただ呆然と立ち尽くしていた。 数秒か、数時間が経ったとき、私たちはどちらが手を引くともなく歩き出した。行き先はターミナル。そして、楽園の外。
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薄いベージュの幕の向こうには、今日も楽園が待っている。 青空を模した壁面も、カラフルな飾りも前と同じ。大理石を模した床は今日も丁寧に磨かれているようで、相変わらずスタッフの努力を感じさせる。それらに囲まれるようにして、マイクを握る司会者も前と同じだ。以前と違うのは、私たちがこの番組を見ているのはネットサービス越しだということ。 この楽園は、既に私たちのものではない。 「さあ登場していただきましょう、本日のゲスト……」 その声が聞こえたところで、スマホの画面を消した。私たちが抜けたあとも、全ては変わりなく回っているように見えた。誰かにとって代えがたい、たった一人の存在など、そうはいないのだ。 あってないようなドアが開くと、一糸まとわぬ姿の甘奈が戻ってきた。甘奈は私の寝転ぶベッドに腰掛けると、手にしたヴィッテルに口をつけ、サイドテーブルに置いた。 「甜花ちゃん、何見てたの?」 「んー……ひみつ」 えーっ、といういたずらな声とともに、裸の上体が擽られる。私は嬌声を我慢できない。腕を伸ばして擽り返すと、甘奈も笑いながらベッドに倒れ込んだ。甘やかな笑い声の間に天使が通ると、大きく開いた窓から見える海の音だけが部屋を吹き抜けた。 こんな暮らしがいつまで持つかはわからない。お金の心配はしばらくないが、それでもいずれは働くことになるだろう。どこかで限界が来て、帰国することもあるかもしれない。永遠に続くかもしれなかった楽園を壊した私たちには、きっと相応の罰が下るのだろう。あったはずの生活を遠くに感じながら、終わらない薄暮を見つめ続ける一生しか選べないのだろう。 それでも、と思う。私は決して一人ではない。甘奈と目が合う。疑うべくもない愛情に満ちた、私と同じ色の瞳。それだけで、その瞬間に、私は今日も確信する。 大丈夫、私たちはやり遂げられる。二人なら、楽園はいらない。