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Journey

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風野灯織・八宮めぐる
風野灯織・八宮めぐる

 飛行機には何度乗っても慣れない。これはどうしようもないことだった。  空中で何かあったらまず助からないのではないか、と考えてしまうのはもちろん、保安検査に間に合わなかったら、とか、搭乗締切時刻に間に合わなかったら、とか、入国審査に通らなかったら、パスポートや旅券をなくしてしまったら等々、色々なことを心配してしまい、気がついたら時間や鞄の中身を確認してしまう。小動物のようにそこらじゅうを引っかき回す私の姿は、傍目から見れば相当忙しなく見えるだろう。  羽田から16時間のフライトを終えて荷物を待っている今もそうで、スーツケースが誤送されてしまったら、誰かに持って行かれてしまったらなどと心配事は尽きない。そんな不安が顔に出ていたのか、隣に立っていた八宮めぐるがもー、と笑った。 「灯織、そんな顔しなくても、荷物はちゃんと届くよ」  そう言った直後にベルトコンベアが動き始めて、彼女はほらね、と言わんばかりの顔をこちらに向ける。今日のめぐるは赤のカーディガンにジーンズといったラフな格好に、長いブロンドの髪を下ろしていて、現地人のように見える彼女の言葉には説得力があった。 「それは、そうかもしれないけど」  それでも、ロビーへ出るまで私は安心できないのだった。  そうしていると、これは初めてのことなのだが、風船が膨らむようにして、いてもたってもいられなくなった。話さずにはいられないような気分になった。流れていく荷物を確認しながら、私はめぐるに飛行機に関する不安のことを語った。  聞いている間じゅう、めぐるはただ「なるほどなるほど」と頷いていたが、聞き終わると静かに腕を組んだ。 「大丈夫! って、わたしが言ったとして」彼女は首を傾げた。「それで安心できるの?」 「できない、と思う。気持ちの問題だから、誰かに話したところで、解決できるものでもないし」  そこまで話したところでふと気付いて、私は俯いた。「じゃあ、何で話したんだろう、私」  呟くと、めぐるは悪戯っぽく、それはねー、と微笑む。 「わたしのことが好きだから、とか?」  私は顔を上げて彼女の顔を見た。 「そうかも」  ちょうどその時、私たちのスーツケースが流れてきたので、めぐるは照れたように笑いながらコンベアーへ顔を逸らした。税関を通り抜ければそこはもう到着ロビーで、私たちは急に開けた天井と浮ついた雰囲気に目を瞬かせた。ここから街の中心までは電車で数分だ。私たちはもう、市街に入っているといってもよかった。  同じことを考えたのか、めぐるが「とにかく」と振り向いた。 「私の故郷へ――ボストンへようこそ、灯織!」

 めぐるがボストンへ行きたいと言い出したのは、夏の終わりの頃だった。その時は確か、スタイリストさんが故郷の話をしていて、私たちがそれに乗っかったのだ。スタイリストさんが出て行った後、調整してもらった衣装を崩さないよう気をつけながら、口を開いたのは私だった。 「私たち、故郷、っていう言葉からちょっと距離があるよね。実家も近いし、そもそも東京があんまり故郷っていう響きと結びつかないっていうか」  めぐるは黙っていた。そこまで言って、はたと気付いた。 「あっ、めぐるはアメリカが故郷になるのかな。ごめん、私たちは、なんて言っちゃって」  慌ててそう言うと、めぐるはゆっくり首を振った。 「ううん、全然。アメリカに家があるわけでもないし、そもそも家があった場所にも、ずーっと、一回も行ってないし」  そうなんだ、と安心すると、会話はそれきり途切れた。  私はめぐるの故郷のことを考えた。だいぶ昔に出てきたとはいえ、エレメンタリースクールの間は向こうにいたのだから、思い入れがないわけではないだろう。懐かしい思い出や、気に入っていた場所もあったに違いない。帰ってみたい思いはあるだろうが、多忙な生活を送る中、それも叶っていないのだろう。いくら恋人とはいえ、そうした機微に踏み込むべきではなかったかもしれない。  そこまで考えたところで、めぐるとふと目が合った。彼女は一瞬ためらうような素振りを見せた後、まっすぐ私を見つめて言った。 「灯織、今度ね、ボストンへ行ってみない?」  わたしと一緒に、と彼女は念を押すように言った。断る理由は、私にはなかった。

 結局まとまった休みが取れたのは10月の半ばだった。ローガン国際空港への航空券を取りながら、わたしたちラッキーだよ、10月は紅葉のハイシーズンだから、とめぐるは笑った。観光もしたいだろうと思った私が旅行のしおりを作ろうとしていると、いいよいいよ、と止められた。 「今回は、わたしに案内させて」 「そうだね。今回の旅行の目的は、めぐるが故郷へ帰ることだもんね」 「そういうわけじゃ……いや、そうなのかもしれないけど」  めぐるの歯切れは悪かったが、なんにせよ、彼女に任せるべきだと私は思った。一度も行ったことがない私よりも、10年前に住んでいた彼女のほうが詳しいに違いない。

 実際、彼女のエスコートは完璧だった。空港から電車に乗り、スムーズに市街へ出る。私一人だったらこの時点で、電車の乗り方がわからずに右往左往してしまっていたことだろう。  不思議な街だった。赤レンガの歴史ある建物や大きな教会があるかと思えば、同じ通りにガラス張りの高層ビルが立ち現れる。細かい地区や建物ごとに強い特徴はあるものの、総体としては捉えどころがなく、学習不足の人工知能が描くような、架空の街並みを想像させた。  めぐるには思い出の場所を訪ねるよう促したので、観光としては物足りないコースになることも覚悟していたが、彼女の選んだコースはほとんど観光のモデルコースと言ってもよかった。大きな博物館、綺麗でかわいらしい通り、紅葉が見事な公園……日が傾きはじめた頃、私たちはショッピングモールに入った。建物は古そうに見えたが、内装は広々として新しく、それなりに多くの人がゆっくりと各店舗の前を通り過ぎていた。 「めぐる、ここにはどんな思い出があるの?」  思い出したように訊いた。訊いてしまったあとで、急に立ち入った質問をしすぎたかな、と反省しかけたが、めぐるはなんでもないように答えた。 「えっとねー、ここにはよくお母さんと来てたかな。そこの本屋とか、よく通ってたよ」  めぐるの指した方向には確かに本屋があった。店内は日本の本屋に比べてずいぶん明るく見えた。商品のほとんどを占める、カラフルなペーパーバックの背表紙のせいかもしれなかった。  店頭には子供向けの絵本が並んでおり、それも店の明るさを増しているように思えた。日本のものに比べて原色が多く、はっきりとして瑞々しい印象を受ける。こういうものを、めぐるは読んでいたのだろうか、と考えた。小さなめぐるは、親の手を引いてこの店に来ただろう。そして、彼女の目線からすぐ下に並んでいる本たち、この鮮やかな平積みの本たちを青色の瞳でじっくりと眺めて、どの本を買ってもらうか、この時ばかりは慎重に慎重に考えたことだろう…… その微笑ましい姿を想像しながら、同じように平積みの本を辿ってみた。絵本のコーナーは存在感の割にさほど長くなく、数歩歩けば棚の端に辿り着いてしまった。端にはショッピングモールについての案内が置かれていた。その表紙を、何気なく読んだ。  表紙に記されたモールの創業年は、つい数年前だった。  固まった私の視線を追って、めぐるが息を呑んだ。その音が聞こえた。 「ごめん、出よっか」  めぐるは踵を返すと、小さなバッグを抱きしめるようにして早足で出口へ歩きはじめた。 「ちょっと、めぐる!」  急いで後を追ったが、彼女がスピードを落とす気配はなかった。

 彼女が歩みを緩めたのは、チャールズリバーのほとりに差し掛かった頃だった。私はほとんど息切れするくらいだったが、そのせいではなく、彼女が話すのを待つために何も言わなかった。彼女は黙って石造りの段差に腰を下ろした。私もその隣に腰掛けた。  目の前に河口を間近に控えた大きな川が、そしてその向こうにケンブリッジ地区の街並みが広がっていた。日はもうほの赤く染まりはじめ、街路樹の間を通り抜ける風を輝かせた。めぐるの真昼の光を織ったような髪は、その中でいっそうきらめいて見えた。私は黙ってそれを見た。 「わたしね」と彼女が呟いた。「故郷の話が出たとき、ドキッとしたんだ」 「うん」と私は頷いた。 「灯織たちはずっと東京にいて、故郷がないっていうか、東京が故郷だっていうことを自然に受け入れてるように見えたの。でも、わたし思ったんだ。今は東京にいるけど、わたしにとって、こっちの……アメリカの住処って、なんなんだろう。故郷と聞いたときに思い出すのはここだけど、本当に故郷なのかな、って」 「うん、わかる……とは、言っちゃいけないのかもしれないけど。そういうのって、アイデンティティの問題だもんね」 「そうなの。わたしが言いたいのって、どこに住むかってことじゃなくて、どこを心のなかに置くかっていうか、どこに帰るか、って、そういうことで……」  彼女はそこで一拍置いて、うまく言えないけど、と呟いた。私は静かに首を振った。 「ボストンに来てみて、どうだった?」 「最初は、期待通りだった。やっぱりここだなぁって思った。でも、そうじゃなかった」 「違ったの」 「うん、なんか違うな、わたしにとってはこの街じゃないなと思った。きっかけなんてなくて、夢から覚めるみたいに。そうしたら、灯織のことが気になって。せっかく来てもらったのに、楽しめないのは悪いなって思っちゃって。ありもしない思い出なんて話して、観光地に連れてきて……そしたら、全部ばれちゃった」  彼女はまたバッグを抱きしめるようにうずくまった。水面を見ているようだった。 「ううん、違うかも……わたし、灯織にここを好きになってもらいたかったんだ。ただ楽しむだけじゃなくて、この街を」めぐるは細く息を吐いた。「おかしいね、わたし、この街じゃないってわかったのに。でも、灯織には気に入ってほしくて」  めぐるは顔を上げずに続けた。 「そもそも、こんなこと、灯織に言っちゃダメだよね。こんな話したら、この街にいい思い出がなくなっちゃうもん。ずっと隠しておいたらよかったのに。でも、それはわかってるんだよ。わかってるのに、どうしても、灯織に話したくなっちゃって」  彼女はゆっくりと顔を上げた。 「ねえ、これってどういうことだと思う?」  私はめぐるの目を見た。戸惑うようなざわめきが、瞳の水面に映っていた。 「私が思うに、だけどね」そう言って、私はかすかに微笑んだ。 「私のことが好きだから、じゃないかな」  めぐるは一瞬呆けたような顔をしていたが、端からほどけるように、ゆっくりと微笑んだ。「そうかな」彼女の呟きは小さく、誰に聞かせるでもないようだった。「そうかも」  空はいま、消えていくように青かった。その下に背景のようにして赤みがかった雲が広がり、街並みは夕日を浴びて細かくきらめいていた。私とめぐるは、黙ってその光景を見ていた。私はそれを美しいと思った。ボストンの、美しい午後だった。