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声をかぎりに

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芹沢あさひ・小宮果穂
芹沢あさひ・小宮果穂

 こういうことがありました。  わたしがまだ、小学生のころの話です。その時わたしは、公園にある自動販売機の後ろに隠れていました。右手に握りしめているのは、駅横のガシャガシャで手に入れた小さなトランシーバーです。一緒に手に入れたもう一方のトランシーバーはというと、離れたベンチに置いてあります。今日はこのカラフルな無線機の、通信ができる距離を確かめようというのです。ただ、残念ながら、わたしは二人いないので、通りがかった人にトランシーバーを拾ってもらって、そのまま通信相手になってもらおうという計画でした。わたしはトランシーバーの音が出る部分の黒いぽつぽつを撫でながら、ただもう一方を手に取る人が現れるのを待っていました。風はなく、陽はぼやけたように照っていました。どこか呑気な暖かさの、静かな昼でした。  結論から言うと、この作戦は、あんまりうまくいきませんでした。トランシーバーは目立ちますから、近づいてくる人や、何があるのかと眺める人はいるのですが、手に取る人はなかなかいなかったからです。わたしは事前に通話の音量を確かめていたのですが、ベンチに置いてあるのを覗き込んだくらいでは、とうてい聞こえないほどの小さな音量が精いっぱいでした。それに、トランシーバー用の小さな電池の替えは持っていません。なので、とにかく音を出してみるわけにもいかず、ただひたすら、手に取る人が現れるのを待ち続けるしかなかったのです。もともと分が悪い賭けだったのかもしれません。けれど、わたしはこうやって待つことにも慣れていました。やみくもに話しかけても答えてくれないのなら、ただ話しかけられるのを待つのみです。そのまま、待っていることすら忘れることもしばしばでした。ただ、この日のわたしは粘り強かったように思います。わたしは低く唸る自動販売機にしがみつくようにして、じっとベンチを見つめていました。  無線機にはさまざまな災難が降りかかりました。犬に持っていかれそうになり、清掃ボランティアの人に捨てられかけました。いい加減別な方法を考えようか、と思っていたころに、ついにその人は現れました。近くの中学校の制服を着た女の人が、小さなトランシーバーを、ひょいと拾い上げたのです。  あっ、と思ったのも束の間、わたしは素早く、黒いぽつぽつに口を当て、スイッチを押しました。「こちら芹沢あさひ! こちら芹沢あさひ! 聞こえますか!」  女の人は一瞬、驚いたように身をすくめました。が、それだけでした。きょろきょろと辺りを見回すと、トランシーバーを持ったまま、一直線にこちらに歩いてきました。 「ああっ」と、わたしは呻きました。「どうして答えてくれないっすか!」 「これ、君の?」その人は目の前まで来て、わたしの手を取ると、応答に使うはずの小さなトランシーバーを握らせました。「こういうのは、友達と遊びなよ」 「どうして答えてくれないっすか」とわたしは再び言いました。「どこまで届くか、知りたかったのに」 「ああ、君……」と、その人はなにか得心のいったような、哀れみの入り混じったような表情をしました。けれど、すぐに微笑みがそれを覆い隠したようでした。「電波が届く距離を知りたかったのか。研究熱心だね」 「そうっすよ。だから答えてほしいっす」 「うーん、申し訳ないけど、私はもうそういうのは」  その人は苦笑したあとで、ふと考え込みました。 「でも、私にも、たしかにそういう頃があったな」  その人は、十四歳だということでした。  その人の学校名や名前も聞きましたが、忘れました。カラフルなトランシーバーも、いつのまにやらどこかへ失くしてしまいました。

 また、こういうことがありました。  これも小学生のころの話だと思います。家でテレビを見ていたときのことでした。画面には二人の人が映っていました。一人は建物の中にいましたが、もう一人は外にいるようでした。一人がしゃべると、もう片方が聞いて、それに応えます。けれど、二人の会話はなんだかぎこちないようでした。わたしはどうも、そのぎこちなさが気になりました。 「どうしてこの二人は、相手がしゃべったあとにしばらく黙るんだろう」  そう声に出たのが聞こえたのか、お母さんが言いました。 「あさひ、これはね、中継放送、といって、実はこの二人はとっても遠くにいるのよ」お母さんは夕ご飯を作っていました。しょうゆか何かのいい匂いが漂っていました。「だから、音が遅れて聞こえてるの」  わたしは驚きました。「遠くにいると、音が遅れて聞こえるの!?」 「ええ、そうよ」  お母さんは何でもないように言いました。が、それは、とんでもないことのように思えました。相手の姿は見えているのに、声が遅れて届く! それは真っ暗な布団のなかで話すのと同じくらい、心細くて、わくわくすることのようでした。 「それなら、いま、こっちの人は」わたしは画面の中にいる人を指さしました。「昔から来た声を聴いてるの?」 「そういうことにも、なるのかもねえ」 「じゃあ、こっちの人は」わたしはもう一方の人を指さしました。「未来に向かってしゃべってるの?」 「それも、そういうことになるのかも」  わたしは興奮しました。じゃあ、お母さんがたまにかけている電話も、もしかしたら未来に向かってしゃべっているのかもしれない! 未来に向かってしゃべるというのは、どんな気持ちなんだろう。そして、過去から聞こえてきた声を聴くというのは? わたしはしばらく、自分で電話をかける機会を伺っていました。  けれど、そのうちに忘れてしまったように思います。

「次は、神社の向こう側に行ってみよう!」  わたしは勢いよく、鳥居の奥を指さしました。当然果穂ちゃんもすぐに頷いてくれるはず、と思い、もはやわたしは左足を踏みしめたところだったのですが、返ってくるはずの返事が返ってきません。不思議に思って振り向くと、果穂ちゃんは歯切れが悪そうに、もじもじと言いました。 「でも、あさひさん……向こうまでいっちゃうと、結構遠いですよね……?」  「そうだね、でも、三十分くらいかな」 「けど、そうすると……」  果穂ちゃんはわたしの頭上を眺めやりました。見ると、電線と二階建ての屋根の間に、線香花火ふうに霞む太陽が落ちかかっていました。なるほど、これでは、向こう側に辿り着く前に日が沈みきってしまうでしょう。 「じゃあ、今日はここまでかな」 「はい……!」  果穂ちゃんは、言いたいことが伝わった安心と、心残りが入り混じったような表情をしていました。心残りはわたしも同じでしたが、幸いなことに、果穂ちゃんとわたしは明日もお仕事がお休みでした。続きは、明日探検できるでしょう。そうなると、家の方向が真逆の果穂ちゃんとは、いったんここでお別れなのでした。 「それじゃ、また明日!」  わたしはふたたび足に力を込めて、駆け出そうとしました。すると、 「あさひさん!」  と後ろから呼び止められました。振り向くと、 「また明日!」  果穂ちゃんが手を振っていました。あたりは暗くなりつつありましたが、橙色の陽に照らされて、はっきりと笑顔が見えました。わたしは立ち止まってそれを見ました。そうすると、伝わったことを確認したのか、果穂ちゃんは微笑んで、後ろを向いて走りだしました。  そのとき、私は思わず「果穂ちゃん!」と叫んでいました。いまだに、この時なぜわたしが果穂ちゃんを呼び止めたのか、納得のいく説明ができません。ただ、果穂ちゃんの側からそう仕向けたような気持ちがするのでした。あるいは、果穂ちゃんがわたしを呼び止めたのも、わたしがそう仕向けたと思ったからなのかもしれません。果穂ちゃんが振り向いたので、わたしは何か言わなければ、と思い、結局こう叫びました。 「また明日!」  わたしが再び走り出すと、数歩地面を蹴るか蹴らないかのうちに、またも背中に声がふりかかってきました。 「また明日!」  こうなるともう止まりません。わたしたちは無性におかしくなって、笑い混じりの応答確認を繰り返しました。 「また明日!」 「また明日!」 「また明日!」 「また明日! ……」  声が遠ざかっていくにつれ、太陽も沈んでいき、ついにはお互いの姿もほとんど見えなくなりました。しかし、相手のはしゃいだ声だけは、はっきりと聞き取れました。聞き取れるということは、こちらも返すしかありません。そうするとしばらく後に、またはっきりと声が返ってくるのでした。  わたしがなぜそんなことをしたのか、やはりいまだにわかりません。しかし、わたしは一つの実感に包まれていました。わたしは今、未来に向かって呼びかけているのでした。そして相手の声は、まぎれもなく未来のわたしに向かって呼びかけられているのでした。実際のところは、わたしの声が届くのは、コンマ何秒にも満たないくらいの未来までだったかもしれません。けれど、わたしは確かに、声が届くかぎりの……わたしが声が届くと思ったかぎりの、ずっと大きな未来に向かって叫んでいました。もはや別れの挨拶は、その意味をなしていませんでした。ここにはただ、いつまでも続く指切りのように、重なり続ける声と約束だけがありました。 「また明日!」 「また明日!」 「また明日! ……」  声はいつまでも返ってきました。わたしたちはいつまでも笑っていました。空には飛沫のようにきれいな星が出ていました。相手の姿がまったく見えなくなっても、わたしは大きく、大きく手を振り続けました。そうして声を限りに叫びました。 「また明日!」  わたしはそのことを、今もはっきりと覚えています。