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(s/m)aison

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大崎甜花・大崎甘奈
大崎甜花・大崎甘奈

 二人暮らしが胸に迫るのは、決まって相手のいないときだった。  今日のそれは、花のかたちをしていた。やや白ぼけた日差しのなかで、煙のようにふくらんだ花枝が、震えるように風にそよぐのを見たとき、甜花は、ああ、と思うのだった。ミモザ、といつか甘奈は言った。み、も、ざ。ほら。み、も……? 甜花が繰り返すと、両の唇が億劫がるようにもたつき、甘奈はそれを聞いて笑った。春を教えてくれるお花なんだって。ふわふわしてて、かわいーよね。確かに甘奈が抱えたそれは、風が部屋に入りこむたび、春を思わせる甘やかな香りを漂わせた。甘奈は空いた小指をスマホの画面にすべらせ何度も手順を確認しながら、なんとかそれをガラスの小瓶に活けたのだった。その袖をめくり上げた腕の白さと、ピンと伸びた指のしなやかさを思い出した。ほのかな春の香りを感じ、甜花は軽く目を閉じた。そういうふうに甘さはいつも、不在の寂しさとともに訪れるのだった。

 Webドラマ、CM、小規模映画と二人のこなしてきた仕事のことを考えれば、ドラマ出演の話が来るのは当然の流れだった。ただ予想外だったのは、今までの仕事では経験したことのない撮影期間のことだった。主役というわけではないんですけれど、と制作ディレクターは語った。準主役というか、頭からラストまで主役と一緒に行動することになりますよね。なので、撮影期間は4月いっぱい、一ヶ月ほどになってしまうのですが。  一ヶ月、と甜花は口の中で繰り返した。撮影期間。怒声とはりつめた静寂が縞模様で訪れ、見えない糸に吊られて走り回るようなあの狂騒の日々が、一ヶ月。めまいがするようだった。しかし、隣に座る甘奈の関心はそこにはなかったらしい。 「あの、期間中の宿泊は……」 「ええ、申し訳ないのですが、現地に部屋を取って、ということになります」  それを聴くと、甘奈は机の下で静かに指を組んだ。甜花はそれを見た。甘奈の日々の地図には、いつも想像がつかないほどの書き込みがある。今も頭の中で、新しい生活までの道筋を描いているに違いなかった。  駅から徒歩10分のマンスリーマンションは築40年を超えており、スーツケースを引いた二人を立ちすくませるのに十分な外見をしていた。すまん、条件に合うのがここしかなかったんだ、と二人のプロデューサー兼マネージャーは言った。オートロックもついてるし、内装は去年綺麗にしたみたいだから、安心してくれ。その言葉通り、錆びかけたドアの向こうは真新しく、磨かれたフローリングの思いもよらない輝きに、甘奈が、すごーい、と声を上げた。まるで秘密基地のようだ、と甜花は思った。甜花が荷物を置く場所に迷っている間にも、甘奈はカーテンを開き、窓を開け放った。 「甜花ちゃん、見て! 海!」  二人の下にはメルヘンチックな街灯が立ち並ぶ商店街があり、細々とした住宅街に続き、その向こうにはほの暗い海が広がっていた。3月末の風は未だ冷たく、冬と潮のにおいを清潔な部屋に運んだ。甘奈の髪が広がって、二人の部屋になびいた。その表情までは、甜花のいるところからは見えなかった。が、そのふるえるような気持ちは甜花も同じだった。甜花は何か言おうと口を開き、結局何も言わずに閉じた。知らない街の冷えた空気が、口の中を乾かしていった。それが、ほぼ一ヶ月前の話だった。

 甘奈が帰ってきたのは昼過ぎだった。甜花はほとんど午睡のなかで彼女を迎えた。 「なーちゃ、おかえり……」 「ごめんね、寝てていいよ」甘奈はバッグを持った手を軽く振った。「ただいま」  日差しを浴びながら歩いてきた薄手のスプリングコートは、ほのかな陽気をまとっていた。脱いだそれを木のハンガーにかけながら、甘奈は机の上に目を留めて笑った。 「甜花ちゃん、鍵!」  撮影日程は想定通りハードなもので、消耗しきった甜花は重い鉄のドアを開くなり、たいてい机の上に鍵を放り出してしまっていた。それは無意識の行動だったが、その鍵を見つけると、甘奈はたいていくすぐったそうに笑うのだった。それも無意識なのだろう、と甜花は思った。こんなとこに置いとくと失くしちゃうよー、と言いながらデビ太郎のキーチェーンを拾い上げようとした甘奈は、途中で、あ、と声を上げた。 「お花が……」  視線の先には、机の端に置かれたちいさな花瓶があった。甜花もようやく起き上がって、それを見た。どうして気付かなかったのだろう、と甜花は思った。華やかな香りを漂わせていた、そして未だに漂わせている花は、いつの間にか萎れかけ、瓶のふちによりかかるようにして力なく垂れ下がっていた。あんなに頑張ってたのに、と甜花はあっけなく思った。あんなに毎日水を換えて、茎を切っていたのに。しかし、どれだけ頑張っても切り花の寿命などこんなものかもしれなかった。そのどうしようもないサイクルの短さは、回転周期の長いものたちに囲まれがちな甜花をやや戸惑わせた。  甘奈は小瓶のなかの褐色がかったそれに手を伸ばしかけ、無機質な鉄のごみ箱のほうをちらりと見た。そしてそのまま手をひっこめると、うううん、とごまかすように笑った。 「次のごみの日までは、このままでいーかな」甘奈は角度を変えつつ、何度も枝ぶりを眺めた。そして、小さく頷きながら呟いた。「まだ、お花も咲いてるし」  言われて甜花も小瓶を眺めてみたが、やはりそれは枯れきってはいないまでも、この部屋にはみすぼらしく映るように思えた。  甜花は座ったまま、しばらくそれを眺めてみた。風が吹くたび、乾きかけた花房の先が擦れ合う音を立てた。甘奈はその間ずっと、黙って窓のほうを見ていた。今朝干された毛布が、ベランダの端に垂れてかすかに揺れていた。

「やっぱり、捨てたほうがいいかな?」だしぬけに甘奈が言った。 「え……?」 「ミモザだよ」み、も、ざ、と甘奈は大きく唇を動かして笑った。「言える?」 「み、も、ざ……」  甜花が繰り返すと甘奈は微笑み、そして寂しそうに花瓶のほうを見た。 「もう、枯れちゃったから」  甜花は甘奈の顔をうかがった。悼むような、諦めるような、幾度となく見せてきた表情をしていた。甜花はやさしい犬のようにゆっくりと立ち上がると、そっと甘奈に身体を寄せた。そうして、花の匂いを嗅いだ。鼻の奥を差す冷気は、もうすっかり感じられなくなっていた。 「うん、でも……」 「でも?」 「匂いはする、みたい」  甘奈も手で扇ぐようにして、花の匂いを嗅いだ。 「そうだね……じゃあ、捨てないほうがいいかな?」  甜花はかぶりを振った。「ううん……捨てたほうがいい、と思う」 「どうして?」 「部屋からなくなっても、匂いはするから」  甘奈は一瞬面食らったような顔をして、しかしすぐにまた微笑んだ。 「そっかぁ」そしてもう一度、花瓶のほうを見た。「甜花ちゃんが言うなら、そうなのかな」   甘奈はきっと、このミモザのことをずっと覚えているのだろう、と甜花は思った。そして時折、枯れてしまったミモザの、美しかったときの日々を思い返して触れるのだろう。老婦人のように。日向の猫のように。甜花はすでに、それをはっきりと知っていた。 「なーちゃん」 「なに? 甜花ちゃん」 「甜花、ミモザの匂い、覚えたから……きっと」甜花は、誇らしげに胸を張った。「いつだって、わかる……!」  本当にわかるのだ、と思った。きっと、その時が来れば。そしてその時は、その場所は、甘奈が地図に描く線の延長線上にある。 「いつだって、かぁ」甘奈はふたたび、撫でるように微笑んだ。 「それなら、安心だね」  甜花はまた何か言おうと口を開き、しかし、結局何も言わずに閉じた。口の中を吹き抜けた風から、甘い春の香りがした。

 二人は枯れたミモザを鉄のごみ箱に入れて、蓋をした。そして袋の口を縛り、月曜には戸外の鳥除けネットの中に置いた。二人はそのまま現場に出ていったから、その後の顛末を知るものはなかった。  それきりしばらく、二人はミモザのことを口に出さなかった。  4月は、そのようにして過ぎていった。