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(さん)

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桑山千雪・七草はづき
桑山千雪・七草はづき

「はづきさ、」  と口にしたところで、見上げるような彼女の視線に気がつきます。すぐに、「やっちゃった」と思いました。こうなったときの彼女は、ただ黙って私を見ているんです。テーブルに置いた肘や、飲むでもなく握ったグラスや、睨むとまではいかない不満げな視線でもって、会話を続ける気はない、というオーラをばんばん出しながら。そういう言外のコミュニケーションに関しては、彼女の右に出るものはいません。 「はづき」  言い直すと、彼女は満足そうに「は~い」と緊張を解きます。私は安心して、話の続きを始めます。それが、ここ最近の、私たちの習慣なのでした。  勢いまかせに彼女の呼び名から「さん」を取り払ったのは、私のほうでした。でも、未だに「さん」付けの癖が抜けないのも私のほうでした。初めて「はづき」と読んだとき、彼女は一瞬驚いたように目を潤ませると、すぐに「なあに、千雪」と微笑みました。それを見て、私はほっとしたものです。ああ、よかった、これでもっと彼女と、他愛ない話ができるかもしれない、って。  その予想はおおかた当たりました。お互い敬語なしで接する彼女は、いつもよりずっと砕けて、実体をもって感じられました。職場ではいつも通り「はづきさん」「千雪さん」、その後は「はづき」と「千雪」。私はそれに満足しています。けれど、ふと気が抜けたとき、視界から彼女の姿が消えたとき、私はついつい「はづきさん」と呼んでしまうのでした。これはもう習慣、と言ってしまえば言い訳めいて聞こえますが、口が覚えてしまっているのです。そのたび、彼女は例の、会話を一時中断するオーラを発するのでした。 「ごめん、つい口から出ちゃうの……!」  私がそう謝ったとき、彼女は「いいっていいって~」と笑いながら、ふと言いました。 「でも、そうやって敬語とそれ以外が混じっちゃったら、お仕事で困らない~?」 「ううん、私がお仕事で関わる人で、こうやって話せるのは、はづきだけだから……!」  そう答えると、はづきはお酒のグラスを持ったまま、くすぐったそうに笑うのでした。

 翌日、私が事務所に着くと、扉越しに彼女の声が聞こえてきました。私は10時からの打ち合わせに間に合うように来ればよかったのですが、彼女は朝早くから出勤しています。月末の締め日が近いので、何かと忙しいのかもしれません。「経費精算、今日までですからね~」という声とともに扉が開いて、バタバタと飛び出してきたのは、プロデューサーさんでした。 「あっ」  と言いながら立ち止まる素振りを見せると、私を拝むようにしながら、 「すまん千雪、この後の打ち合わせだけど、15分くらい遅れるかもしれない……!」と頭を下げました。「撮影が、かなり巻いてるらしくて」 「私は大丈夫ですから、どうぞ急いでください……!」 「ありがとう、行ってくるよ!」  小走りで去っていく背中に「気をつけてくださいねー……!」と声をかけると、事務所は急にしんとしたようでした。  部屋の中を見渡すと、今見えるところにいるのは、机に向かって事務作業を続けるはづきだけ。  他に誰かいますか? と聞くのもなんだか憚られたので、コートをハンガーにかけると、私は台本を取り出しました。 「千雪さん、お茶、淹れてきましょうか?」  彼女が手を止めないまま訊いてくるので、私は、 「ううん、お気遣いなく」  と答えました。彼女はそれきり作業に戻ったようで、事務所にはキーボードを叩く音と、エアコンの唸り声だけが漂いました。  私はしばらく台本に没頭していました。次のラジオ収録は明後日です。もう既にだいたいの流れと時間、読み仮名は頭に入っていますが、いくら読んでおいても困るということはありません……が、とはいえすでに浚った本です。  すぐに気になってしまうのは、仕事をしているはづきの姿なのでした。  彼女はいつも通り、てきぱきと仕事を片付けているようでした。提出された書類を次々まとめて、予定を打ち込み、なにやら業者に電話をかけ……その流れるような仕事ぶりは、ついひとつのことに集中しすぎてしまう私にとって、想像もつかないようななめらかさをもっています。そうした姿を見ていると、やっぱり、と考えてしまうのでした。彼女は「はづきさん」だなぁ。  しかし、しばらく盗み見ていると、ふ、とその作業の手が止まるときがあるのでした。そうした瞬間、彼女は眉根に皺を寄せたり、小首を傾げたり、肘を硬直させたりしています。そうした動作を見せるのはほんのわずかな時間なのですが、私はちょっとだけ驚きました。職場での彼女といえば、完璧に作業をこなす時間と、まさにスリープモードといった具合に眠る時間のふたつしか知らなかったからです。その合間合間に、実はこうしたふとした緩みが点在しているのでした。 「ただいま! すまん、遅くなった……!」  急いた足音につづいて、プロデューサーさんが帰ってきました。時計を見ると、まだ予定の10時を5分ほどしか過ぎていません。このまま、すぐに打ち合わせを始められそうです。が、そこで私はふと、前回収録の打ち合わせ資料も用意しておいたほうがいいのではないか、と思い当たりました。前回の資料は、彼女が保管していたはずです。プロデューサーさんはまだ、コートを脱いでいます。先に彼女に声をかけるべく、私は口を開きかけました。  すると彼女は、猛然とキーボードを叩いていた手を緩め、ふ、と笑ったんです! その視線の先の画面に何が映っているのかは、私からは見えませんでした。けれど、その緩んだ頬とちらりと覗く歯、優しげな目許は、あの居酒屋でいつも向けられる笑顔と驚くほど似通っているのでした。そこで、私はようやく気付きました。昼の彼女も夜の彼女も、おんなじ一人の―― 「はづき、」  口にしたところで、時間が止まるようでした。プロデューサーさんは鞄に手を突っ込んだまま固まり、彼女もじっとこちらを見ています。私はあっ、と思いましたが、一度切ってしまった言葉は、なかなか続きが出てきません。  どうしよう、ああ、と喉に詰まった声が出そうになったところで、彼女が不意に微笑みました。 「なあに、千雪」  時間が止まったと思われたのは一瞬のことで、プロデューサーさんは鞄から資料を引っ張り出し、彼女は手を止めて私を見上げていました。エアコンの唸り声が、秒針のように空気をふるわせました。 「あの、前回の打ち合わせの資料って……」 「ああ、この番組? ちょっと待ってね~……」  彼女は何事もなかったような顔で、資料を手渡してくれました。その後、私は打ち合わせに入り、彼女は作業に戻りました。普段と変わらない、事務所の朝の一幕でした。  けれど私には、決定的な瞬間だったように思えました。  ああ、もう彼女のことを「はづきさん」と呼ぶことはないんだろうな、彼女が私のことを「千雪さん」と呼ぶことは、もうないんだろうな。  そういう確信が、窓から差し込む朝の光に混じって、私の視界のはじをばちばちときらめかせるのでした。