謎の祠
雑記
祠
祠の破壊が流行っている。それで思い出したのだけど、実家の地域には「燈明当番」というものがあった。当番の家は、夜になると地区のそれこそ祠くらいの神社の灯籠に火をつけに行く。そして、当番が終わると担当地区の家々の名字が筆で書かれたデカい木の板を次の家に回す。それを繰り返す。この当番を、小学生のころは少なくともずっとやっていた気がするけど、いつからか見なくなった気がするな。廃止されたのかな。 そういう地域に根付いた謎の祠みたいな存在を知っているかどうかで、「お前、あの祠壊したんか」という言葉の重みが変わってくる……ような、そうでもないような。
つくったもの
弓削シェフのきのこパスタ。鉄かアルミの鍋がないとなめこが焦げ付かないので、成立しているのかわからない。おいしいからいいんだけど…… あとはラー油も作った。取り出したネギとショウガが一番うまい。
よかったもの
佐藤亜紀『小説のストラテジー』
三割くらい読んだ。小説を書くための本かと思いきや、小説をいかに読むか、というか、いかに正面から芸術と向き合うか、という話をずっとしている。講義が元になっているだけあって、書きっぷりもかなりアツい。
受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したふりをすることを拒否する強さです。芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまで知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。芸術を最も倫理的たらしめるのはこういう姿勢です。「意図」や「意味」とだらしなくひと繋がりになった作品の倫理性や深さなど、ほんの一瞬のものに過ぎません。
例えば『運命』を聴いたときに、「運命はかく扉を叩く」と言ってみるとか当時のウィーンの状況に結びつけるとか、そういう作品外から引っ張ってきたもっともらしい解釈をもって「何か言わなければ」という焦燥をごまかすのをやめろ、ちゃんと音の流れとその効果に向き合え、そういう話をしている……はず。身につまされる話だ。