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背景のない

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花初そたい
花初そたい

雑記

軸がぶれている

バドミントンをやっている人にはあるあるなのだけど、身体の左右差がひどい。先日、ちょっと真面目な写真を撮ってもらったときに「まっすぐ立って、もうちょっと右肩上げてください」と言われたのだけど、そういえば漏れは右肩と左肩の高さが全然違う。後ろからも見てもらったところ、肩甲骨の高さも違うらしい。嫌になっちゃうな。歪み発見だ。 以前整体に行ったら「身体の歪みを取るには、歪むのにかかったのと同じくらいの時間が必要です」と言われたので、「じゃあ中学・高校で歪んだんだから6年くらいかかるやんけ」「そうでもないくせに長期間通わせて金を毟り取ろうとしてるんじゃないか」と思ってしまいそれ以降行っていない。でも、少しでもマシにしたほうがいい気もしてきた。

haikeinonasa

今日、ふとTLに流れてきた篠澤広さんの絵を見て感動した。 見ての通り『トゥルーマン・ショー』のラストシーンのオマージュ(見ていない人がいたらごめんなさい、名作なので見てね)なのだけど、篠澤さんが出口に腰掛け、こちらを見て笑いかけている、という光景からは、第三者の存在が想像される。つまり、篠澤さんはトゥルーマン・ショーの主人公ではなく、主人公は今まさに階段へ手をかけようというところなのではないか? 篠澤さんは、出口にてそれを待っていたのではないか? という想像だ。その待っている相手としては、もちろん学マスのキャラクターを想像することもできるのだけど、「トゥルーマン・ショー妄想」のイメージも相まって、なにか精神を病んだ人間が最後に見る夢、現世からの逸脱といったものを想像してしまう。要するに、篠澤広さんが待っている相手は「僕」だ。その想像においては、篠澤さんがアイドルを目指す学園の生徒であること、病弱だが秀才で努力家であることといった世界観や文脈は一切必要ない。ただ篠澤広さんという表象があればいい。(もちろん、作者はそのような読みを意図してはいないだろうけど) この絵とかもだけど、キャラクターを作品の文脈から完全に切り離し、一個の表象にする、ということは、絵でしかなし得ない気がする。文章や詩はどうしても背景となる世界を想像させてしまう。背景がない、ということ自体の衝撃は絵からしか受けられないんじゃなかろうか。

つくったもの

キャベツのアンチョビソテー。雑に作ってもうまいのでありがたい。