レトリックを信じる


雑記
分割
分割式キーボードに慣れようとしています。まだかなり左の人差し指がYを探して空を切ってしまう。親指でエンターとスペースを押すのはだいぶ慣れてきた。慣れるとかなりスムーズで気持ちいい気がする。ホームポジションから動かないのが気持ちいいのは当たり前。そうでしょ?(催眠音声) 日記を書くためにちょっと英数入力をしようと思うと一気に崩れる。記号の位置とか、いちいち近くにある普通のキーボードを見て「この数字はシフト押したらこの記号だから……」みたいな確認をしないと打てない。これは仕事に使うにはだいぶ時間がかかりそうだな……
小さな春
梅が見頃だということで近くの梅まつりに行った。梅って全然春に咲かないのに、なぜかたくさん咲いているのを見ると春みたいな気がしてくるから不思議だ。今日がやたら暖かかったのが大きいんだろうけど。 梅もそこそこに、地域の組合的なものが出している屋台でビールとチーズつくねを買って呑んだ。昼間の公園で酒飲むの、最高~!!! 昼間の公園で飲む酒が一番うまい。というか、「今の状態で飲むのが一番うまい」と思えるシチュエーションが無数にあるのがビールのいいところだな。
レトリックを信じる
なぜか最近今年のシャニマスを振り返るみたいな記事がポツポツ出てきているが、「小鳥たちの讃歌」が賛否両論でちょっとビックリしている。みんな好きだと思ってた。 どうも「レトリックだけで中身が薄い」というのが理由のひとつとしてあるっぽいのだけど、それもなんとなく虚を突かれたような気がする。だってレトリックが良ければ中身なんてどうでもいいじゃん。ていうか、レトリックにはそれだけの力がある、ということを描いたのが【ノンセンス・プロンプ】だと思ってたんだけど。なんだか、『小説のストラテジー』を読んでからますます「すよねえ! やっぱ『表面に留まる』ことが一番大事っすよねえ!」という思想が先鋭化してきているような気がする。
芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまで知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。芸術を最も倫理的たらしめるのはこういう姿勢です。「意図」や「意味」とだらしなくひと繋がりになった作品の倫理性や深さなど、ほんの一瞬のものに過ぎません。 (佐藤亜紀『小説のストラテジー』)
つくったもの
春菊の白和え。今回はちゃんと豆腐を水抜きしてから使った。味が濃厚になった……というよりも、全体的にベチャッとしなくなったのがうれしい。必要な手間だったんだなあ。