過ぎていく目


雑記
上野
今日はアンドリュー・ワイエス展を見に行くことに決めていたので、朝のうちに家を出た。ゴールデンウィークでも朝なら空いてるんじゃないか、という見込みで、実際快適に見られたのだけど、北斎展の当日券売り場には列ができていたし、単にワイエス展が不人気だっただけかもしれない。でも、フレッシュな状態で見られると気分がいいし、朝に美術館に行くのは今後も良さそうな気がする。昼食を気にしないといけないのは難点だけど。
愛のタコス
昼食を遅くして展覧会をハシゴしようかどうか迷ったが、ワイエス展に食らい過ぎたので、大人しく帰ることに。せっかくなので、昼は気になっていたタコス屋に行った。ヘルメス・トリスメギストスみたいな名前の有名店だ。ワイエス展で泣いたあとにメキシカンタコス食べに行くの躁鬱すぎる。 メキシカンタコスと言えば、というくらいの店だと思っていたので、結構期待していたのだけど……結果、そこまでだった。他にもっとうまくて安い店あるな。トッピングは全て控えめだし、カルニタスももっとギトギトの方が好み。1皿5個も食えるか?と思ったけど、さっぱりしているので足りないくらいだった。 でも、トルティーヤはおいしかった。香りがめちゃくちゃいい。やっぱフラワートルティーヤって美味しいけど全然別物だな。家でもマサ粉があれば作れるのかもしれないけど……いや、マサ粉なんて買ったら絶対余らせるしな……
つくったもの
豚こまと卵と小松菜の炒め。何の工夫もない。明後日小田原まで魚を買いにいくので、そのことしか考えられなくなっている。
よかったもの
アンドリュー・ワイエス展
よかった~~~~~。マジで良かった。展覧会でこんなに食らうことそうそうない。 最初は「絵がうますぎるな」「技法によって全然表情が違うんだ」「水彩ってなんか空気に動きがあっていいな」とボンヤリ見ていたが、空気が変わったのは「オルソン・ハウス」の章に入ってから。メイン州の名も無き村に建つオルソン姉弟の自宅を、ワイエスは30年にわたって描き続けた。足が不自由でありながら自立心と社交性を持つ姉クリスティーナと、寡黙でシャイながら働き者の弟アルヴァロを、ワイエスは度々モデルにする(今回の展覧会の目玉である「クリスティーナ・オルソン」もその一環)。周囲から隔絶したような生活の孤独と、その力強さ、何よりそれを描き出す視線が大変好みで、いつの間にか二人とオルソン・ハウスの絵を追っていくことに没頭してしまった。 そこに突然現れたのが、オルソン姉弟が共に亡くなったあとのオルソン・ハウスを描いた絵。何作もの習作を繰り返して、完成したのが「オルソン家の終焉」だった。これがこの章の最後の作品になるのだけど、あまりの衝撃にしばらくこの付近を右往左往してしまった。う、失われてしまった……オルソン家が、永遠に…… 住人を失ったオルソン・ハウスはもはや急速に朽ちていくだけだが、その終焉を見つめるワイエスの視線は家の外ではなく、中にある。夕暮れを思わせる暖色の光は崩れかけた煙突を備えた屋根、そしてその向こうの湖に降り注ぎ、確かにひとつの終わりを告げているようだけど、決して寒々しくはない。その描き方がワイエスなりのこの家に対する惜別というか、悼み方だったのだろうと思うと、もう涙ぐんでしまった。家の絵を見て泣くおじさん、怖すぎる…… 最後の章は撮影OKだったので、何枚か写真を撮りながら見た。その中で、クリスティーナの死の予感と、しかし確かな風通しの良さを思わせる「ゼラニウム」を見てまた涙。これを終盤に持ってくるのズルいな~。Twitterにはこの「ゼラニウム」に加えて、あまりにも郁田はるきすぎる「モデルの椅子」を貼ったので、不在をもってその人物を描き出すところにシャニマスを感じたように思えるかもしれない。けど、漏れが本当にシャニマスを感じたのは、過ぎゆくものを見つめる視線の存在と、過ぎていくことを知ったうえでその切なさも、眩しさも描こうとするヒューマニズムなんだよな。そこはもう長々と説明しなくても、ワイエス展を見てくれればわかるはず。 過ぎ去っていったものたち、そして新たなモデルをまとめた章のラストに置かれたのは、屋外で晴天の海を見つめる妻を窓の中から描いた「ヒトデ」。これがもう文句なしに明るさと希望、胸がぎゅっとなるような眩しさに満ちた一枚で、いよいよもって泣いてしまった。これをラストに持ってくるということ自体が、ヒューマニズムに満ちたメッセージですよねえ。漏れの中のホールデンくんも大号泣だ。 図録を買おうか迷ったけど、鞄を持っていなかったのでやめておいた。普通に画集を買おうかな。他の絵も見てみたいし。